吉原宏太が水戸に残した誇りある痕跡=サッカー人生を懸けて挑んだ戦い
4年前に1日だけ引退
17年の現役生活に終止符を打った吉原。サッカー人生の終盤は苦悩の日々が続いた 【写真:アフロスポーツ】
08年いっぱいで大宮アルディージャとの契約が切れた吉原はあるクラブと交渉を行っていた。交渉は年をまたいで長引いたものの、破談に終わってしまった。そのとき、すでにどのクラブも編成を終えており、始動しているクラブも多かった。行き場を失ってしまった吉原はあることを決意する。
「誕生日(2月2日)までにオファーがなければ引退する」
しかし、待てど暮らせど、連絡は来ない。そしてついにタイムリミットの日がやってきた。「引退」。正式に発表はしなかったものの、吉原は心の中で決断を下したのであった。
だが、サッカーの神様は吉原を簡単には辞めさせてくれなかった。事態が動いたのは誕生日の翌日の2月3日。吉原の携帯が鳴り、発信先を見ると、当時の水戸ホーリーホックの監督であり、かつてプレーしていたコンサドーレ札幌のチームメート「木山隆之」の名が記されていた。「どこにも決まってないなら、ウチの練習に来てみれば」。かつてのチームメートだけに軽いノリではあったが、その言葉の奥には木山が吉原の力を必要としている思いが込められていた。一度は引退を決めたものの、やはり自分を必要としてくれる誘いは吉原にとっては喜びであった。すぐに荷物をまとめて水戸へと向かう。そして、10日間の練習参加の末、チーム加入が決定。引退からわずか1日で現役復帰が決まった。
「水戸にとっては1億円の評価をしてくれた」
さらに加入会見で語った吉原の一言が注目を集めた。
「水戸にとっては1億円の評価をしてくれた」
当時、水戸から提示された額は3けた中盤だと言われている。それまでの年俸と比べると数分の1に下がったものの、クラブの現状をすべて受け入れ、その中で最高の結果を残すという、意思が込められた言葉であった。
「本当に思ったままのことを言いました。クラブの状況を考えると、最高の評価をしてもらったと思っています。そして、一度は引退を決意した自分をプロの世界に戻してくれたことにも感謝しています。残りのサッカー人生は水戸のためにすべてをささげようと決意しました」
すべてをささげる――プレーはもちろん、自分の培ってきたすべてを還元することも含まれている。
「それまでの自分と変わりましたよね」
吉原は水戸に加入してからの自分をそう振り返る。以前は周りの選手にアドバイスをするということを積極的に行ってこなかった。もし若い選手にアドバイスをして、成長されたら自分のポジションを奪われてしまう。プロとして生き延びていくためにも自分のポジションを確保することが大切であった。
しかし、水戸に来てからはことあるごとに若手にアドバイスを送った。自分のためではなく、チームのためだけを考えるようになったのだ。そして、自らが試合に出る意義についてもこう語った。
「水戸には優秀な若い選手が多い。そういう可能性のある選手たちを差し置いて、ベテランが試合に出るということは絶対に結果を出さないといけない」。
そう自らに課してプレーした吉原。荒田智之(現ファジアーノ岡山)や高崎寛之(現ヴォルティス徳島)らと切磋琢磨(せっさたくま)しながら、チームは力をつけていった。毎年下位に沈んできた水戸であったが、吉原が加入した09年は夏過ぎまで上位につけ、J1昇格争いを繰り広げる躍進を見せた。結局、8位という結果に終わり、J1昇格は果たせなかったものの、田中マルクス闘莉王(現名古屋グランパス)を擁して7位につけた03年に次ぐ順位。さらにクラブ史上初の勝ち越しに成功した。自らも9得点を決める活躍を見せ、水戸で確かな一歩を踏み出した。