吉原宏太が水戸に残した誇りある痕跡=サッカー人生を懸けて挑んだ戦い

佐藤拓也

アキレスけん断裂という悪夢

大けがからの復帰に涙を浮かべる。満足いく結果は残せなかったものの、吉原が戦い続けた痕跡は水戸にとって大きな誇りとなるだろう 【写真:アフロ】

 しかし、翌年からは苦悩の日々を送る。移籍金撤廃のあおりを受けた水戸は格好の草刈り場と化し、主力の多くがチームを去ることになってしまうと、吉原にかかる負担ははるかに大きくなった。「すべてをささげる」と覚悟を決めた以上、その重役を担うしかなかった。だが、その責任感の強さが吉原を苦しめた。リーグ開幕から試合に出続けた吉原だが、徐々にコンディションを落とす。足に痛みが出るようになり、満足いくプレーができなくなった。

 最も痛みが出たのが左足のアキレスけんであった。「無理をしたら切れるかもしれない。でも、今のチーム状況を考えたら、無理をしないといけない」と、運命の試合の前に“予兆”を語っていた。

 当時をこう振り返る。「僕は水戸に拾ってもらったわけだし、恩返しするためにも、すべてをささげると思って来たわけだから、中途半端な状況で休むということはしたくなかった。アキレスけんが切れたら、その時は引退するという覚悟を持っていました。それよりも、とにかくアキレスけんが切れるまでやってやろうという思いでプレーしていました」

 10年10月3日の第29節愛媛FC戦、15分に悪夢が吉原を襲う。右サイドでボールを受けた吉原が加速して相手を抜こうとした瞬間、何かにつまずいたかのように転倒し、そのままピッチ上に突っ伏した。顔を覆ったまま起き上がらない吉原。“予兆”を語っていただけに、周りの誰もが何が起きたか分かっていた。左足アキレスけんが断裂したのだ。

 そこから吉原は「地獄の日々」を送ることとなる。1度目の手術は失敗。2度目の手術は臀部(でんぶ)から皮膚を移植する想像を絶する痛みを伴うものとなった。

「思い通りにプレーできない」

 リハビリは過酷を極め、練習に戻ることができても「いつアキレスけんが切れるか」という恐怖が常につきまとった。それは一瞬のスピードを武器にゴールを重ねてきた吉原にとっては致命的であった。「以前のようなスピードが出ない」。吉原の表情が晴れることはなかった。

 11年7月に戦列に復帰。10月2日の京都サンガF.C.戦で復帰後初ゴールを決め、本格復帰なるかと期待されたものの、10月30日の第33節ザスパ草津戦で今度はGKと接触し、肋骨を骨折。またしても長期離脱を余儀なくされたのだ。

「けがが治れば、必ず力を出せるから」。11年から指揮を執る柱谷哲二監督に激励されながら、吉原は必死にリハビリを行い、昨年春に復帰を遂げた。しかし、状況は変わらなかった。

「思い通りにプレーできない」。かつてのようなスピードがなくなり、ボールも思うようにコントロールすることができない。ジレンマとの戦いであった。それは水戸での自分を全否定するようなものだった。

「水戸に来てから若い選手にいろいろアドバイスをすることが自分の役割だと思っていたけど、プレーで示すことができないと説得力がない。それも辛かったですね」

 吉原はそう振り返る。そして復帰から2カ月たった7月、ある決断を下した。

「このまま水戸にいても迷惑をかけるだけ。たとえ来年契約を延長してくれると言っても断って水戸を離れる。それが水戸のためになると思う」

 結局、昨年吉原は2試合の先発出場にとどまり、わずか1ゴールという結果でシーズンを終えた。シーズン後、クラブから「来季の契約をしない」という旨を伝えられると、吉原はすがすがしい表情でそれを受け入れた。「苦しい思いもしたけど、自分としてやれることはやった。出し切った思いはあります」。そう胸を張って、吉原は水戸を離れることとなった。

満足いく「結果」や「形」は残せなかったが

 その後、いくつかオファーはあった。だが、「水戸以上に、このチームのためにすべてを出せる」と思えるオファーが届かなかったため、“タイムリミット”の2月2日に引退を決意。今回はその日に正式に発表し、スパイクを脱いだ。

 残念ながら水戸での4年間で満足のいく「結果」や「形」を残すことはできなかった。しかし、元日本代表選手が「水戸にすべてをささげる」と宣言し、その言葉通り、もがきながらもすべてを出し切って戦い続けた痕跡こそが、水戸という「可能性を秘めた」(吉原)クラブにとって、何よりの誇りとなることだろう。サッカー人生を懸けてまで走った吉原の思いを無駄にしないためにも、水戸は立ち止まることは許されない。

 吉原自身の今後は「まだ決まっていない」という。「メディアの仕事かもしれないし、育成の仕事かもしれない。いずれにせよ、サッカーの仕事をしていく」と語る。17年間走り続けた男は、これからも「サッカー」とともに走り続けることとなる。「いつか水戸に戻ってくるかもしれないね」と笑顔を見せた。

<了>

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著者プロフィール

1977年7月30日生まれ。横浜市出身。青山学院大学卒業後、一般企業に就職するも、1年で退社。ライターを目指すために日本ジャーナリスト専門学校に入学。卒業後に横浜FCのオフィシャルライターとして活動を始め、2004年秋にサッカー専門新聞『EL GOLAZO』創刊に携わり、フリーライターとなる。現在は『EL GOLAZO』『J’s GOAL』で水戸ホーリーホックの担当ライターとして活動。2012年から有料webサイト『デイリーホーリーホック』のメインライターを務める。

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