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岩田卓也、亡き母と共に歩んだクラブW杯への道
“見えないチカラ”に導かれて立つ夢の舞台

“下手くそ”が世界の舞台に立つ

オークランド・シティの左サイドバックとして活躍が期待される岩田
オークランド・シティの左サイドバックとして活躍が期待される岩田【写真:アフロ】

「自分がクラブワールドカップ(W杯)に出るなんて、今でも信じられない」


 岩田卓也はオークランド・シティ(ニュージーランド)の一員としての来日を前に、心境を率直に語った。


 日本では地域リーグでしかプレー経験のない無名日本人選手が、クラブ世界最高峰の大会に向けて帰国する――。そんなサクセス・ストーリーがにわかに注目を集めている。それでも当人は、「僕みたいな下手くそが、どうして、クラブW杯に出られるんだって思ってる元のチームメイトは、たくさんいるはず」と屈託がない。


 愛知県一宮市出身の岩田は、中高を通じて岐阜県でプレーした。「(全国高校サッカー)選手権に出るなら、強豪ひしめく愛知より競争率の高くない岐阜だと思った」との目論みどおり、進学した岐阜工は岩田が1年次(1999年)と3年次(2001年)に選手権出場を果たした。しかし、岩田自身はその二回のチャンスを共に直前のけがで棒に振る不運に見舞われる。大会の得点王に輝いた片桐淳至(現・ヴァンフォーレ甲府)を擁した01年の選手権では、あれよあれよの快進撃で決勝(※決勝は長崎・国見高に敗戦)まで勝ち進んだチームを、うれしさと悔しさが入り交じった複雑な心境で見守ることしかできなかった。


 卒業後、Jクラブからの誘いを受けなかった岩田は、当時、長谷川健太(前・清水エスパルス監督)が総監督を務めていた浜松大学に進学。大学卒業後は、岐阜出身の選手主体でのJ参入を目指して東海リーグ1部に上がってきたFC岐阜に、本人がいうところの “岐阜枠”で入団した。

Jでの出場機会は訪れず

 高校、大学、そして岐阜とスポットライトを浴びることなく、サッカー選手としてのキャリアを地味に歩んできた岩田に転機が訪れたのは、トップチームで出場機会を得られず転籍したFC岐阜セカンド(FC岐阜のアマチュアチーム)の在籍も3年を過ぎようとしていた09年の終りだった。


 JFL、J2とステップアップしていくトップチームの練習に呼ばれることもあったが、チャンスをつかめないまま時間だけが過ぎていく。岐阜セカンドから抜け切れずにいる自分のキャリアの先が見えず、「このままでいいのか」という思いが頭をもたげた。


 将来を切り開くべく情報収集を進めるなかで、「海外で英語を学びながらサッカーをする」というプランに気持ちが動いた。少ないつてをたどり、先輩の友人に現地でプレー経験のあるオーストラリア・ケアンズ在住の日本人がいることを知る。岩田はまったく面識のないその人物にすぐにコンタクトを取った。


「話をいろいろ聞いているうちに、すぐにでも行こうという気になって、ケアンズ行きを決めました」。一見、無鉄砲に思えるこの決断が、クラブW杯を目指すきっかけを呼ぶことになった。

海外渡航直後に襲った悲報

 このケアンズへの渡航と前後して、岩田にまったく予期せぬ出来事が降りかかる。サッカーを始めてからずっと最大の理解者だった母・浩美さんのガンが再発。長年にわたって、闘病を続けてきた母は、海外に雄飛する息子に心配を掛けまいと、出発直前に判明した再発とそれに伴う体調の悪化を岩田に告げることはなかった。


 ケアンズに到着して新生活を始めていた岩田は、突然、「母、危篤」の報せを受ける。慌てて帰国の飛行機チケットを手配しているとき、追いかけるように悲報が届き、母の最期をみとることはできなかった。


「左利きなので、お守り代わりにと思ったんです」と、今は冷静に振り返る岩田だが、茫然(ぼうぜん)自失のまま赴いた火葬場では、荼毘(だび)に付された母の亡きがらの左足部分の遺灰を涙ながらに拾った。小さなビンに詰められた亡き母の遺灰は、悲しみを拭えないままオーストラリアに戻る岩田の懐に抱かれて太平洋を渡った。

植松久隆
1974年福岡県生まれ。豪州ブリスベン在住。中高はボールをうまく足でコントロールできないなら手でというだけの理由でハンドボール部に所属。浪人で上京、草創期のJリーグや代表戦に足しげく通う。一所に落ち着けない20代を駆け抜け、30歳目前にして03年に豪州に渡る。豪州最大の邦字紙・日豪プレスで勤務、サッカー関連記事を担当。07年からはフリーランスとして活動する。日豪プレス連載の「日豪サッカー新時代」は、豪州サッカー愛好者にマニアックな支持を集め、好評を博している

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