理念の実現に向けたリーグの拡大=Jリーグを創った男・佐々木一樹 第4回

大住良之

一挙に9クラブを迎えて「J2」がスタート

99年にはJ2がスタート。10クラブが参戦した 【Jリーグフォト(株)】

 しかし、そのような状態でもJリーグは「拡大」のスピードを緩めなかった。
 1996年、99年のシーズンから2部「J2」をスタートすることを決定。97年に神戸、98年にはコンサドーレ札幌を加えて18クラブになっていたJリーグだったが、「J1」を16クラブとし、10クラブ程度の「J2」とすることになったのだ。98年末に横浜の2クラブ(マリノスとフリューゲルス)が合併するという出来事があったが、1999年、Jリーグは一挙に9クラブを迎えて全26クラブとなり、「J2」が始まった。

 この年に新しくJ2に加入したのは、ベガルタ仙台、モンテディオ山形、大宮アルディージャ、FC東京、川崎フロンターレ、ヴァンフォーレ甲府、アルビレックス新潟、サガン鳥栖、大分トリニータの9クラブ。

「無茶な拡大」という批判もあった。しかしこの9クラブのいくつもが現在のJ1の中心をなしていることを考えれば、このときの決断が正しかったことは十分証明されるに違いない。そして2012年にサガン鳥栖がJ1に昇格し、全9クラブが少なくとも1シーズンはJ1を経験したことになる。

理念を具体的に表現した「Jリーグ百年構想」キャンペーン

1996年に始まった「Jリーグ百年構想」キャンペーン 【Jリーグフォト(株)】

「10年で16チーム」の予定が、わずか6年で26クラブにまで拡大し、J2誕生にまで至ったのは、加入を希望するクラブが次々と出てきたことが要因だったが、その背景には、1996年に始めた「Jリーグ百年構想」キャンペーンがあった。

「それぞれの地域に根ざしたクラブづくりという当初からの『理念』を、より具体的な形で表現しようということで、『百年構想』というキャッチフレーズとともにどこにでもありそうな町の写真を使ったポスターをつくりました。実は大阪の写真だったのですが……。さらにこの後には、いろいろな競技のボールをあしらったポスターもつくり、サッカーの試合をするだけでなく、地域に必要とされる総合スポーツクラブを目指していくというJリーグの理念を表現しました。『Mr.ピッチ』というマスコットもつくりましたね」(佐々木さん)

「某大新聞社のトップが、プロ野球界とは大きく違うJリーグの方針を激しく批判したことで、逆にスポーツと企業と地域のあり方についてJリーグの考え方が広まったということもありました。いろいろな要素があってJリーグの理念が浸透し、各地でJクラブを興そうという人、そしてそれを応援してやろうという地域社会や自治体の強い後押しになったと思います」

Mr.ピッチの苦労

万年青年で、悩みなどなさそうに見えるMr.ピッチ(写真)だが、人知れぬ苦労もあった 【Jリーグフォト(株)】

「身長180センチ、スリーサイズは上から200・200・200、血液型はJ型、全身を緑の芝生におおわれた怪人?」(Jリーグホームページより)

 万年青年(evergreen)で、悩みなどなさそうに見えるMr.ピッチだが、人知れぬ苦労もあった。

「着ぐるみをつくったのですが、最初は素材も固くて動きが悪かったんです。実際、歩くのも大変だった。着ぐるみを稼働させるために、ときどきは『プロ』も使ったけど、予算もなかったのでインターンの学生に中に入ってもらったりしていました」(佐々木さん)

「でも最初は本当に大変だったと思います。その後、シュートさせるなどの動きも必要になったので、素材を柔らかくしたり、真夏は内部が猛烈な熱さになるので扇風機を入れたり、ずいぶん改善されましたね」

 観客数が急激に落ち込み、メディアの扱いも急速に冷えてきた1990年代の後半。しかしJリーグは「未来」を見つめ続けていた。思い切り高く「理念」を掲げ(ユーモアも忘れず)、仲間を増やす努力を止めなかった。それがどんな意味をもっていたのか、本当に理解されるのは、10年以上を経てからのことだった。

<第5回に続く>

(協力:Jリーグ)

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著者プロフィール

サッカージャーナリスト。1951年7月17日神奈川県生まれ。一橋大学在学中にベースボール・マガジン社「サッカーマガジン」の編集に携わり、1974年に同社入社。1978年〜1982年まで編集長を務め、同年(株)ベースボール・マガジン社を退社。(株)アンサーを経て1988年にフリーランスとなる。1974年からFIFAワールドカップを取材。1998年にアジアサッカー連盟「フットボール・ライター・オブ・ザ・イヤー」を受賞。 執筆活動と並行して財団法人日本サッカー協会 施設委員、広報委員、女子委員、審判委員、Jリーグ 技術委員などへの有識者としての参加、またアドバイザー、スーパーバイザーなどを務め、日本サッカーに貢献。また、女子サッカーチーム「FC PAF」の監督として、サッカーの普及・育成もつとめる。 『サッカーへの招待』(岩波新書)、『ワールドカップの世界地図』(PHP新書)など著書多数。 Jリーグ開幕年の1993年から東京新聞にてコラム『サッカーの話をしよう』がスタートし、現在も連載が継続。

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