日本はいかにして競泳大国になったのか? 〜北島康介とその時代〜

小川勝

転機になった96年のアトランタ五輪

ロンドン五輪で3大会連続2冠を狙う北島(左)と日本競泳チームを率いる平井コーチ 【写真は共同】

 第二次世界大戦前、日本の競泳は世界をリードしていた。
 五輪での最高成績は1932年ロサンゼルス五輪で金5、銀5、銅2。戦後も52年ヘルシンキ五輪で銀3、56年メルボルン五輪で金1、銀4、60年ローマ五輪で銀3、銅1。ここまで、日本は「メダル常連国」だった。

 しかし、そこから低迷した。64年東京五輪で銅1、68年メキシコ五輪でついにメダルなしに終わると、以後、96年アトランタ五輪まで、約30年間にわたって低迷が続いた。その間、複数のメダルを獲得したのは72年ミュンヘン五輪だけで、そのミュンヘンも、田口信教が金1、銅1、青木まゆみが金1と、メダルを取った選手は2人だけだった。

 転機になったのは96年アトランタ五輪だ。この時、久々に才能ある選手がそろっていた。青山綾里、鹿島瞳、千葉すずといった若い選手たちが、96年の世界ランキング1位から3位にあたるタイムを日本選手権で続々と出して、メダル候補としての才能を見せた。しかし、五輪では大きくタイムを落としてメダルゼロに終わった。力がなかったのではなく、持っている力を本番で出せなかったのである。

 日本水泳連盟は、ここから変わっていった。才能ある選手はいるのだ。問題は、持っている力を、五輪本番でどう発揮させるかだった。

 なぜ、本番で力を発揮できなかったのか。アトランタ五輪のあと、競泳日本代表のヘッドコーチに就任した上野広治(現競泳委員長)には、ひとつの明快な答えがあった。

「それは、チームではなく、個人で戦っていたからですよ」と彼は言う。

 競泳の日本代表チームは、さまざまなスイミングクラブの選手が集まった寄り合い所帯だ。かつてコーチは、ほかのクラブの選手には口出ししないというのが常識だった。選手同士でも派閥のようなものが形成され、重圧のかかる大会期間中に、チーム全体で励まし合ったり、先にレースを終えた選手が、あとの選手に役に立つ情報を伝えたりはしなかった。多くの選手が孤立状態で、重圧を個人で抱え込んでいたのである。

 日大豊山高の保健体育教師で、スイミングクラブの所属ではなかった上野は、クラブ間の壁を取り払い、代表チームが一つになることに尽力した。コーチ間、選手間のコミュニケーションを図り、他クラブの選手の成功をチームジャパンとして、「自分の成功」のように感じられる関係の醸成を目指した。

 年々、代表チームの常識は変わっていった。選手同士が助言し合うようになり、全員が一緒になって泳いでいる選手を応援するようになった。そのような常識ができ上がっていく中で、その後、長く代表チームをけん引するエースが代表チームに入ってきた。北島康介である。

シドニー五輪で女子が躍進

 日本が60年ローマ五輪以来の「メダル常連国」として復活したのは、2000年のシドニー五輪だった。
 メダルを獲得したのは中村真衣(100メートル背泳ぎ銀)、田島寧子(400メートル個人メドレー銀)、中尾美樹(200メートル背泳ぎ銅)、女子400メートルメドレーリレー(中村真衣、田中雅美、大西順子、源純夏=銅)。女子選手ばかりだったが、シドニー五輪の競泳で、アジア勢でメダルを獲得したのは日本だけだった。米国、オーストラリアという2大競泳大国に対抗し得る新しい勢力として、日本が名乗りを挙げた大会だったと言える。

 女子選手が飛躍した背景として、選手の年齢層が上がった点は見逃せない。アトランタ五輪の中学・高校生中心から、シドニー五輪では大学生中心になった。女子選手は大人になると体型も変わるため、ピークは10代だと考えられていた。だが高いモチベーションを持って合理的なトレーニングをすれば、大学生になっても記録を伸ばせる。その流れをつくったのが田中雅美だった。男子の強豪校だった中大の水泳部に入って記録を伸ばすと、1年後輩に中村真衣、源純夏が入ってきて、一気に常識を変えてしまった。

 シドニー五輪の時、北島康介は17歳の高校3年で、100メートル平泳ぎで4位だった。メダルは取れなかったが、タイムは自己ベストだった。日本の競泳陣では4人の高校生が出場、その中で最もよい成績を収めて次代のエースと目されるようになった。

「世界記録」が現実的な目標に

 その翌年、01年に福岡で世界水泳選手権が行われた。テレビ朝日が初めて独占生中継を行ったところ、五輪翌年のため世界的な有力選手は何人か出場しなかったにもかかわらず、視聴率の面でも成功を収めた。これは日本の競泳選手にとって大きな変化だった。

 というのも、この成功によって、水泳は五輪だけでなく、2年に1度の世界選手権もテレビで中継されるようになったからだ。露出が増えたことで、企業にとっては、水泳選手を支援するメリットが生まれた。世界大会でメダルを狙える選手であれば、大学を卒業したあとも、企業の支援を受けて、水泳に専念できるチャンスが増えた。この流れの中で誕生した、最初で最大のスターが、北島だったと言える。

 北島は福岡での世界選手権、200メートル平泳ぎで銅メダルを獲得。18歳ながら、次代のエースとしての地位を確立した。そして翌年、02年のアジア大会(釜山)で、彼が近年の水泳選手とはスケールの違う、大エースであることを証明した。200メートル平泳ぎで、2分9秒97の世界記録を樹立したのである。鈴木大地や岩崎恭子といった五輪の金メダリストたちも、世界記録を出したことはなかった。日本人が世界記録を出したのは、1972年ミュンヘン五輪100メートルバタフライの青木まゆみ以来、30年ぶりのことで、この快挙は、他の選手たちに決定的に多大な影響を与えた。

 そして翌2003年の世界選手権(バルセロナ)、100メートル、200メートルの平泳ぎで、ともに世界記録で金メダルを獲得すると、世界大会でメダルを目指している日本の選手たちは、こぞって「世界記録」を目標に掲げるようになった。

 そして選手たちの口から「目標を高くしないと、練習も頑張れない」といった言葉が聞かれるようになった。この点こそ、北島と、彼を指導する平井伯昌コーチが、日本の競泳界に与えた一番の影響だったと言える。口先ではなく、具体的な目標として「世界記録」を掲げ、そのための練習計画を作るという考え方が、日本競泳界で日常的なものになったのである。

1/2ページ

著者プロフィール

1959年、東京生まれ。青山学院大学理工学部卒。82年、スポーツニッポン新聞社に入社。アマ野球、プロ野球、北米4大スポーツ、長野五輪などを担当。01年5月に独立してスポーツライターに。著書に「幻の東京カッブス」(毎日新聞社)、「イチローは『天才』ではない」(角川書店)、「10秒の壁」(集英社)など。

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント