現役引退の藤田俊哉が抱く大きな夢=指導者への転身、欧州クラブでの監督を目指す

元川悦子

「大きな山があったら登ってみたくなる」

選手時代はオランダのユトレヒトでもプレー。藤田の海外志向は当時から強かった 【写真:PICS UNITED/アフロ】

 梅雨時らしい気候となった7月3日午後、都内ホテルの会見場に、濃紺のスーツに身を包んだ元日本代表MF藤田俊哉が現れた。

 清水商業時代に高校サッカー選手権優勝を果たし、筑波大学時代には総理大臣杯を制した彼は、94年に入ったジュビロ磐田で華々しい実績を残した。中山雅史(現札幌)や名波浩(現解説者)らとともにJリーグステージ優勝6回、年間制覇3回、98年アジアクラブ選手権優勝と黄金時代を築き、2001年にはJリーグMVPも受賞している。その後はオランダ挑戦を経て、名古屋グランパス、ロアッソ熊本、ジェフ千葉でも献身的に働いた。これだけ長い間活躍し、日本サッカー界に貢献してきた男が先月末、18年間の現役生活にピリオドを打つことを発表した際には、寂しさを覚えたファンも多かっただろう。「2列目の位置から鋭い飛び出しを見せ、瞬間的にゴールを奪うという藤田ならではのプレーをもう1回、見たかった…」と惜しむ声も関係者の間では上がったほどだ。

 しかし、彼の表情は晴れやかだった。欧州クラブの監督を目指すという新たな目標設定を明確にしたからだ。

「僕は10歳から30年近くプレーヤーとしてやってきたんで、そこから離れるのは物すごく勇気のいることだった。香港をはじめ、たくさんのオファーをもらって揺れたのも事実です。でも、自分にとっては指導者として大きな挑戦をする方が大きな山だった。大きな山があったら登ってみたくなるのは僕の性格。その直感を大事にしようと思いました」
 こう語る藤田が海外で指導者の道を歩む決断を下したのは、ちょうど2週間前。吉田麻也とカレン・ロバートが所属するオランダ・エールディビジ・VVVフェンロのハイ・ベルデン会長と直接会う機会を持ち、「オランダに渡って指導者経験を積み、クラブの監督を目指してみたらどうか。われわれは最大限のサポートを惜しまない」という力強い言葉をもらったことに、背中を押されたという。

「これだけ日本人選手が欧州に出て行く時代になったし、海外へ出て行く指導者も必要になる。僕ら選手上がりの人間がそれを目指してチャレンジすることが、日本サッカー界全体のさらなるレベルアップにつながる」という考えを強めていた藤田にとって、同会長の提案は琴線に触れるものだった。もともと「ほかの人がやっていないことを先にやりたい」と考えるタイプだったこともあり、彼は前例のない道を自ら切り開く覚悟を決めた。

 今後については、今年8月から1年間かけてJFA公認S級ライセンスを取得。そのうえで来年6月以降、オランダに渡って、VVVの下部組織で指導に携わる予定だ。そこから指導者のキャリアをスタートさせ、最終的にはトップレベルの監督を目指す。そのステージに到達するには長い時間がかかるだろうが、意思の強い彼ならきっと夢を現実にするはずだ。

特に深いオランダとの関わり

 そこまで藤田が海外にこだわりを持つのは、まず選手時代の出会いが大きい。磐田時代は元日本代表監督のハンス・オフト、2002年ワールドカップ(W杯)・日韓大会でブラジル代表を世界一に導いたフェリペ・スコラーリ監督ら名将の下でプレー。日本代表でもフィリップ・トルシエやジーコなど個性豊かな外国人監督からさまざまな要求を受けた。そういった中で、海外志向が強まっていったのは間違いない。

「僕がジュビロ磐田に入った時の監督はオランダ人のオフトだった。そして2003年にオランダでプレーした後、名古屋グランパスに行った時はセフ・フェルホーセン監督で、ロアッソ熊本の後に行ったジェフ千葉もドワイトさんが監督だった。なんでこんなにオランダづいてるんだろうと思うくらいだったけど、これも1つの縁だし、大切にしたいと思う」と本人もしみじみ話したが、オランダとの関わりは特に深い。

 2003年に6カ月間だけユトレヒトでプレーした際には、日本にはないサッカー文化や美しく整備された環境、当たりの激しいプレースタイルを目の当たりにし、大いに刺激を受けた。「確かに球際は強い。それも自分のリズムでサッカーができないことが大きい。ボールを持った時の落ち着きだったり、かわす間合いだったりね。もっと自分がこうしたいって主張すれば変わっていくと思う」と当時の藤田はオランダスタイルに適応する時間を強く求めていた。だが、クラブ同士が条件面で折り合わず、オランダ残留はかなわなかった。彼としてはもっともっと異国のサッカーを極めたかったに違いないが、不完全燃焼感を抱えたまま、帰国を余儀なくされた。その時にやり残したことを指導者になってから果たしたいという思いは、心のどこかにあっただろう。

「オランダはそんなに大きくない国なのにサッカーに対しては歴史も盛り上がりもすごくある。カリキュラムもトレーニングメソッドもしっかりしてますし、そういうのをまず自分の中で消化して、日本のやり方とマッチングできればいい。もちろん、オランダがすべてとは思っていないし、1つの比較材料にできればいい」と本人も言うように、この国のやり方をベースにしながら、ベストな方向性を模索していくつもりだ。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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