現役引退の藤田俊哉が抱く大きな夢=指導者への転身、欧州クラブでの監督を目指す

元川悦子

W杯の出場はかなわず

日本代表では結局、W杯出場はかなわなかったが、今度は指導者として大舞台を目指す 【写真:北村大樹/アフロスポーツ】

 藤田の海外志向を強めるもう1つの要素となっているのが、W杯など主要国際大会に出ていないこと。Jリーグでは、J1で419試合出場100ゴール、J2で79試合出場6ゴールという圧巻のキャリアを積み上げ、磐田の黄金期を築く中心的存在となった彼だが、日本代表ではなぜか中途半端な立場を強いられ続けてきた。Jリーグ新人時代にパウロ・ロベルト・ファルカン率いる日本代表に抜てきされてから、加茂周、トルシエ、ジーコと10年近く日の丸をつける機会があったものの、どうしても世界が遠かった。

 特に、代表定着へのラストチャンスととらえていたジーコ時代は、欧州組至上主義のような傾向が強かったことから、オランダへ渡ってチャンスをうかがうという思い切った行動に出た。

「僕の場合、代表デビューした95年のダイナスティカップ・中国戦(香港)でいきなり点を取った。そして同じ年のアンブロカップ・スウェーデン戦(ノッティンガム)でもゴールして、代表に定着するはずだったんだけどね……。タイミングを逃したのは自分のせいだと思っているけど。それでもサッカーをやっている以上、代表への執着は当然ある。30歳を過ぎてから活躍する人がいてもいいと思うしね」と当時の藤田は代表への渇望を口にしていた。そのもくろみ通り、30代になってからジーコに抜てきされ、2004年3月のドイツW杯アジア1次予選・シンガポール戦(アウエー)で決勝点を挙げる働きを見せた。彼自身、選手時代に最も記憶に残るゴールとしてこの1点を挙げるほど、世界の舞台への思い入れは強かった。しかし、最終的にドイツW杯メンバー入りはかなわず終わってしまった。

いざという時には心を鬼にできる

「選手時代にやり残したこと? それはいっぱいあるよ。すべてにおいて満足してない。僕は五輪にも出てないし、W杯にも出てないしね」と藤田は苦笑いしていたが、そんな悔しさが指導者として世界で勝負する原動力になったのではないか。むしろ選手時代に苦い経験を数多くしている人間の方が、懐の深い指導者になれる可能性は少なくない。そういう意味でもこの男のポテンシャルは大きい。

 加えて、藤田は日本プロサッカー選手会会長を3期も務めるなど、サッカー界屈指の人格者としても知られている。誰とも分け隔てなく接することができる器の大きさとコミュニケーション能力、物事を多角的に見る視野の広さやインテリジェンスも併せ持っている。そういう優れた人間性は海外で指導者として活躍するのに必要不可欠な部分といえる。欧州トップクラブの指揮官になるには、少し性格的に優しすぎる嫌いがあるかもしれないが、厳しい環境に身を投じれば、臨機応変な対応もできるようになるだろう。実際、選手会会長として日本サッカー協会に言いにくい待遇改善要求をしてきた実績もあるだけに、いざという時には心を鬼にできるはずだ。その変ぼうぶりも気になるところだ。

 カズ(三浦知良)、中山らとともに、Jリーグ創成期から現在に至るまで日本サッカーを力強く支えてきた名MF・藤田俊哉の新たなるチャレンジがどうなっていくのかは非常に興味深い。まずはこれまでの18年間の働きをねぎらうとともに、指導者としての今後に注目していきたいものだ。

<了>

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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