順風満帆ではなかったプロサッカーの船出=Jリーグを創った男・佐々木一樹 第2回

大住良之

広報の「いろは」を教わる

1993年の清水エスパルスvs.鹿島アントラーズの対戦(日本平)。試合に臨むジーコ(写真左)。 【(C)J.LEAGUE PHOTOS】

 佐々木さんはJリーグの事務局長と広報室長を兼務していた。新しいプロサッカーリーグをサッカーファンだけでなく広く日本中の人々に知ってもらい、たとえばプロ野球と何が違うかを理解してもらうことは、急を要する課題だった。

「いきなり広報室長という役割がついたけれど、とりあえずおまえやっておけといった感じでした。専門に広報というものを勉強したことはありませんでしたから、正直、どうしていいのか、まったく分からなかった。ただ単純に、多くの人に試合を見に来てもらうにはどうしたらいいか、どんな点をアピールすべきか、そのためにどこから変えていくか、お願いしていくかなど、考えました。学生時代からお世話になっていた共同通信の小山敏昭さんや、NHKの松浦徹さんをはじめとしたメディアの人たちに、飲みながら教えてもらいました。こういうふうな情報の出し方をすれば書きやすい、掲載されやすい、こんな出し方では書かないぞなどと、具体的に教えてもらったことが役立ちましたね」

最初の公式戦「ヤマザキナビスコカップ」

 そして1992年9月5日、Jリーグは初めての公式戦である「ヤマザキナビスコカップ」の開幕を迎える。

 開幕戦は、鹿島アントラーズ対横浜フリューゲルス(茨城・笠松運動公園陸上競技場)、名古屋グランパスエイト対清水エスパルス(愛知・名古屋市瑞穂球技場)、浦和レッズ対ジェフユナイテッド市原(埼玉・大宮公園サッカー場)、ガンバ大阪対横浜マリノス(兵庫・神戸市立中央球技場)、そして翌6日にサンフレッチェ広島対ヴェルディ川崎(広島・県総合グラウンド・メインスタジアム)。

 翌93年のJリーグ開幕以降に使用されるホームスタジアムは改装中あるいは建設中で、この大会では使用することができなかったのだ。その開幕の日、試合後に配布された公式記録には、驚くべきものがあった。観客数の実数が記載されていたのだ。

 なぜこれが「驚くべきもの」なのか。

 日本のスポーツ界では、観客数は「概数」が発表されていた。それが古くからの慣習だった。入場者を1人の単位までカウントするのではなく、「だいたいこんなもの」と担当者の判断ひとつで決められ、発表されていたのだ。

 主催者の見栄なのか、イベント価値を高めるためなのか、それは次第にエスカレートし、当時6万人の定員だった東京・国立競技場でのプロ・スポーツのイベントで「8万人」と発表されたこともあった。プロ野球のある球団は、4万7,000人の収容力しかないのに、長い間、試合ごとに「5万6,000人」と発表していた。

 サッカーでも、JSL時代は同じだった。担当者がスタンドを見上げて「うーん、きょうは3,000人」などとやっていた(実際には1,000人程度だっただろう)。JSL全27シーズンの総観客数は973万9,110人ということになっているが、実際に何人が試合を見にスタジアムを訪れたのか、いまとなっては知るすべもない。

実数発表の意味

「ヨーロッパのリーグを見ると、1人のケタまで発表されているという認識が始まりでした。それまでの日本のスポーツ界で常識だった方式でたとえば『1万5,000人』という発表だと、自分が行かなくても『1万5,000人』。実際に来ていただいた人に、わたしたちから感謝の気持ちも伝わらない。『1万2,426人』という発表なら、『ああ、自分が行かなかったら、1万2,425人なんだな』と思うことができます。実数発表は、観客の一人ひとりを大事にすることにつながると、クラブの運営担当者たちとも話し合いました。作業が大変になることは分かっていましたが、反対意見はひとつもありませんでしたね」

 最初は半券(入場券から入場時にもぎとった部分)を集めてビニール袋に入れ、試合の後半が始まってからずっと数えていた。雨が降ると半券がぬれて張りつき、本当に大変だったという。

「概数」なら「1万」としてもいい雰囲気の試合でも、「実数」にすると、たとえば6,836人などという数字が出てしまう。プロのイメージを傷つけないかという懸念があっても当然だったが、クラブの運営担当者たちからは、「そこから本当に1万人を超せるよう努力していくのがプロじゃないか。ウソの数字を並べても、成長することはできない」という強い意見が出たという。

 茨城・笠松5,226人。
 愛知・瑞穂8,029人。
 埼玉・大宮4,934人。
 兵庫・神戸4,728人。
 そして広島・総合1万3,861人。

 これが日本の「プロサッカーリーグ」の船出だった。

<第3回に続く>

 本コラムは、2012年12月まで毎月1回掲載する予定です。

(協力:Jリーグ)

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著者プロフィール

サッカージャーナリスト。1951年7月17日神奈川県生まれ。一橋大学在学中にベースボール・マガジン社「サッカーマガジン」の編集に携わり、1974年に同社入社。1978年〜1982年まで編集長を務め、同年(株)ベースボール・マガジン社を退社。(株)アンサーを経て1988年にフリーランスとなる。1974年からFIFAワールドカップを取材。1998年にアジアサッカー連盟「フットボール・ライター・オブ・ザ・イヤー」を受賞。 執筆活動と並行して財団法人日本サッカー協会 施設委員、広報委員、女子委員、審判委員、Jリーグ 技術委員などへの有識者としての参加、またアドバイザー、スーパーバイザーなどを務め、日本サッカーに貢献。また、女子サッカーチーム「FC PAF」の監督として、サッカーの普及・育成もつとめる。 『サッカーへの招待』(岩波新書)、『ワールドカップの世界地図』(PHP新書)など著書多数。 Jリーグ開幕年の1993年から東京新聞にてコラム『サッカーの話をしよう』がスタートし、現在も連載が継続。

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