悩めるエース・並里成、覚醒なるか? スラムダンク奨学生第1期生の現在位置=bjリーグプレーオフ

河合麗子

3季ぶりの優勝を目指す琉球の若き司令塔、並里。プレーぶりから、多くの人に「ファンタジスタ」と呼ばれている 【(C)RYUKYU GOLDEN KINGS/bj-league】

 プロバスケットボール「bjリーグ」はいよいよクライマックス。ゴールデンウィークに始まったプレーオフは10日から東西、各カンファレンスのセミファイナル、そして19、20日に東京・有明コロシアムでファイナルズ(カンファレンス・ファイナルとファイナル)を迎える。
 優勝候補筆頭は、ウエスタン・カンファレンス1位通過、bjリーグ全19チーム中、最高勝率でレギュラーシーズンを終えた琉球ゴールデンキングス。2008−09シーズンに初優勝を飾り、3季ぶりの優勝を目指すチームの中で注目は、若き司令塔、並里成(なみざと なりと)だ。しかし、この若きエースはプレーオフを前に悩みを抱えていた。

沖縄が生んだ『やんちゃなファンタジスタ』

 並里は、沖縄・コザ中学を卒業後、福岡第一高に進学。ウインターカップでは1年生ながらチームの初優勝に貢献し、1年と3年時にベスト5に選出された。U−18日本代表、米国留学を支援するスラムダンク奨学生第1期生にも選ばれ、同世代の中ではトップクラスの経歴を誇っている。
 視野の広さと左右自在に投げ分けるパス能力、独特なステップとスピード、爆発的な得点力、身長172センチながら2メートル超えの外国人選手にも負けないフィジカルの強さ、そんな彼のプレーは多くの人から「ファンタジスタ」と評される。

 小学時代から彼を指導する松島良和氏によれば、子どものころの並里は「やんちゃでわんぱく」。「審判の判定にもすぐ突っかかっていって……」と振り返る松島氏の言葉に、「だいぶ我慢できるようになりました。大人になりました」と並里ははにかむ。
 しかし、ドリブルしたり手でボール回しをしたり登校中もバスケットボールを離さない。練習の合間もNBAをまねし、イメージトレーニングを行う、「バスケがうまくなりたい」という気持ちは誰にも負けない男の子だったそうだ。

 松島氏いわく、中学時代は「並里が1人で30点取る」コザ中と、「実力者そろい」の北中城中の実力が伯仲。「俺が得点して、ディフェンスが集中してくれば、ノーマークになった仲間を生かす」。自分の感性を信じプレーしていたと言う並里は、「2校とも普段は仲がいいのに、試合ではけんかのようだった」と、ここでもやんちゃぶりを話してくれた。
 2校は九州大会でも決勝戦で激突、コザ中は九州制覇を果たしたが、その後の全国大会では北中城中が全国制覇、コザがベスト8だった。

“並里世代”で全国の上位に立った沖縄勢、沖縄の中学男子の全国制覇は過去に6回、全国で最多優勝を誇る。沖縄の子ども達は個人技の高さが評価されるが、これは沖縄バスケット界のある特別な環境が要因の一つにある。
 BS放送やDVDなどの普及で、今やNBAは日本でも身近に視聴できる存在になったが、沖縄ではもっと前から視聴することができた。米国軍が基地関係者のために放送していた米国のニュースやスポーツを伝える「極東放送」、これが沖縄では視聴することができたからだ。
 日本のバスケよりNBAのバスケを見て育った現在の指導者たちが、その技術を子ども達に注入し、日本のセオリーにはないプレーで全国を驚かせている。

 保育園のころから走れば誰にも負けない運動能力を持っていた並里は、バスケをしていた兄・祐(たすく/元・岩手ビックブルズ)の影響でNBAのDVDを観賞し、そのプレーを真似して育った。そしてその素質を沖縄の指導者達が開花させ、“並里成”という「やんちゃなファンタジスタ」が誕生した。

米国への挑戦と挫折

類稀な才能を持つ並里だったが、米国では挫折を経験した 【(C)RYUKYU GOLDEN KINGS/bj-league】

 そんな彼が、昨年7年ぶりに沖縄のコートに立つまでには、様々な挫折があった。「日本一になりたい」と沖縄を離れ福岡第一高校に進学、指導者にも恵まれ1年でその目標を達成、並里は輝かしい成績を修めた。
 そして2008年、いよいよ子どものころからの夢だったNBAへの挑戦が始まる。漫画家井上雄彦氏が創設したスラムダンク奨学生第1期生に選ばれ、米国のサウスケントスクールに留学した。

 米国で大学(NCAA)進学を果たし、さらなる高みを目指すことを目標としていた並里だったが、その舞台はそう甘くはなかった。米国ではバスケットの実力とともに、“英語でのコミュニケーション能力”が強く求められる。その能力を含め、大学進学を果たすことができなかったのだ。結果として夢への1回目の挑戦は叶わなかったが、多くを学んだ1年となった。

 日本帰国後、JBLの09−10シーズンにリンク栃木ブレックスに入団。日本人で唯一NBAを経験するPG田臥勇太が在籍するリンク栃木での新シーズンは、ベンチからのスタートとなった。
 それでも優勝に貢献したいと、練習中から先輩達にタフにぶつかり、チームの刺激になろうと心がけた。ベンチでは試合に出ている5人に声をかけ続けムードメーカーに徹した。ベンチにいながらも実際に座る時間は短かった。
「1年目は田臥さんやいろんな選手がいて学ぶところも多く、試合に出られなくてもバスケの勉強をさせてもらうことができた」と語る並里だが、この年初優勝を遂げたチームのロッカールームで心の底から喜べない自分がいた。

 そして2年目、米国やリンク栃木での経験が自分のプレーに生かされている実感があった。今年はコートに立つ年になる、そう確信していたが、状況は変らなかった。自分のプレーを表現できない「ファンタジスタ」は新たな舞台を求めた。
 しかし、NBAへの再挑戦をめざすも、リーグの労使交渉が難航し、現場はロックアウト(経営者の施設封鎖)状態。並里は行き場を失った。そんな彼に表現の場を与えたのが、故郷沖縄のbjリーグ、琉球だった。

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著者プロフィール

熊本県出身、元琉球朝日放送・熊本県民テレビアナウンサー。これまでニュース番組を中心にキャスター・リポーター・ディレクターなどを務め、スポーツ・教育・経済・観光などをテーマに九州・沖縄をフィールドに取材活動を行う。2016年4月の熊本地震では益城町に住む両親が被災した。

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