「バルサ」の「サ」――カタルーニャにとってバルサが意味するもの
レアル・マドリードとバルサのライバル意識の裏にある事情
レアル・マドリードとバルサの間にあるライバル意識の裏には、異なる民族同士の事情があった 【Getty Images】
もう少しスペイン語とカタルーニャ語を比べてみよう。「バルサがんばれ!」は “Forca(フォルサ) Barca(バルサ)!(これらのcもひげ付き)” forcaはスペイン語ではfuerza(フエルサ)。「バルサ万歳!」は “Visca(ビスカ) Barca(バルサ)!” で、Viscaはスペイン語だと “Viva(ビバ)!”。びっくりマークを逆さにしたものが最初に付く。
もちろん、隣り合わせの言語なので、「ボール」 pelota(ペロタ、スペイン語=以下ス)、pilota(ピロタ、カタルーニャ語=以下カ)、「ビール」 cerveza(セルベサ=ス)、cervesa(サルベザ=カ)、のようによく似たところは多いが、「チーズ」 queso(ケソ=ス)、formatge(フルマッジャ=カ)のように全然違う言葉も少なくない。 (面白いことにカタルーニャ語のformatgeは、もう一つのお隣さん、フランス語のfromageに近い)
このように、一つの国家の中にいくつもの民族が存在することはヨーロッパではごく当たり前。ただ、異なる民族同士が必ずしも仲良く共存できるとは限らない。むしろ微妙に仲が悪いことの方が多い。マドリード周辺のスペイン中央部と、地中海に面するカタルーニャも良好な関係にあるとは言い難い。マドリードは政治的権力を握っている。他方、カタルーニャは産業の中心地で金を持っている。一方が「政府に盾突くな」、と言えば、もう一方は「スペイン経済を支えているのは自分たちだ」、となる。レアル・マドリード(「レアル」というのは「王室公認の」という意味に過ぎないので、「レアル」と略すのは感心しない)とバルサのライバル意識の裏にはそういう事情がある。
「フットボール・クルブ・バルセロナ」の誕生
カタルーニャは中世(鎌倉時代ごろ)には大地中海帝国で、遠くギリシャまで勢力を伸ばしていた。ところがその栄華に陰りがみえるようになったころ、内陸の隣国カスティーリャ王国は逆に、世界中に領土を広げ、「日の沈まぬ帝国」を築きつつあった。イサベル女王の支援を受けたコロンブスが「発見」した(1492年)アメリカ大陸から流入した膨大な金銀がその原資となった。そして、カスティーリャ王国はカタルーニャを飲み込んでスペイン王国ができ上がった。
時は過ぎて19世紀末、日本でいえば明治の初めごろ、カタルーニャは産業革命によって息を吹き返す。カタルーニャ人の勤勉な国民性が近代社会に向いていたのである。一方、スペインは労働を見下す、古めかしい貴族的気質が災いし、時代に乗り遅れる。海外の植民地をほとんど失い、見るも無残な状況にあった。カタルーニャは当然のように自治拡大を求めた。しかし、マドリードの中央政府はこれを断固弾圧した。
活気にあふれるバルセロナでこのころ(1899年)誕生したのが「フットボール・クルブ・バルセロナ」(バルサ)だった。最初は、カタルーニャの「お雇い外国人」のサッカー好きが集まった単なる同好会だった。しかし、やがて地元の人たちの人気を博するようになり、カタルーニャを代表するクラブとなった。その一つのきっかけとなったのが、自治権拡大運動でバルサが断固たる態度で、カタルーニャを応援したことだった。バルサに続いて創設されていた「エスパニョル」(当初はSocietat Espanyola de Football)が中立的であったのとは対照的であった。バルサとは異なり、「エスパニョル」はスペイン人だけで構成されていたが、その後も中央政府寄りの姿勢が見られた。1912年にスペイン国王アルフォンソ13世に願い出て、Reial(Real=ス、王室公認)の称号を賜ったり、クラブの紋章に王冠を配していることにもそれが表れている。こうしてカタルーニャのアイデンティティーとバルサは切っても切れない関係となった。