リスクを伴う伊野波のハイドゥク移籍=100年の歴史を持つクロアチアの名門クラブの実情

長束恭行

100年の歴史で初めてのアジア人選手

ハイデュク・スプリトに移籍した伊野波(左)。クロアチアで新たな挑戦に挑む 【写真は共同】

「ダルマチア人のわたしはここで生まれた。わたしがハイドゥク・スプリトを愛しているのは青い海が知っている。ダルマチア人のわたしは、ここが故郷だ。わたしの祖先が昔に錨(いかり)を投げ、ここにわたしを結び付けてくれた」

 これはハイドゥクのサポーター「トルツィダ」が試合前に大合唱する伝統的な応援歌の一節だ。今年がクラブ創立100年。船乗りの多いクロアチア南部ダルマチア地方においてカルト的な支持を受け、同郷者のアイデンティティーとなりしクラブ、それがハイドゥクである。クラブ愛に満ちた地元選手を重用し、そのローカリズムをトルツィダも支持していたものの、今年4月に刷新したフロントは外国人路線へと大きくかじ取りした。

 昨季はリーグ優勝で100歳を祝うはずが失敗。宿敵ディナモ・ザグレブにリーグ6連覇を許し、その敗因は重圧に耐え切れない生え抜きの若手選手にあるとして次々と放出した。代わる選手として獲得したのが7人の外国人選手。その中でも最大の補強選手に位置づけられるのが、100年の歴史で初めてのアジア人選手であり、日本人選手となる伊野波雅彦だ。新監督のブルガリア人、クラシミール・バラコフは彼のポリバレント能力を高く買っている。

「スピードがあり、ピッチで何をすべきかタイミングも理解している。そして1対1に強く、あらゆるポジションを楽にこなす。われわれは彼のような選手を本当に欲していた」

 昨季のハイドゥクはリーグ30試合で32失点。12失点のディナモと比較すれば、弱点が脆弱(ぜいじゃく)なディフェンスにあることは明白だ。右サイドバック(SB)の専門家はシーズンを通しておらず、MFミルコ・オレムシュとセンターバック(CB)のマリオ・マロチャを代用してきた。伊野波の専門はCBといえ、日本代表でも右SBをこなした彼にハイドゥクは注目した。
 しかし、CBの軸となる元オーストラリア代表のリュボ・ミリチェビッチは、オーストリア合宿で左ふくらはぎを負傷し全治1カ月。元クロアチア代表のフルボイエ・ベイッチは年俸削減に応じず、試合出場は確約されていない。よって、伊野波が最初に与えられたポジションは左CB。チーム事情によっては右SB、ボランチとフル回転することになる。薄い選手層やライバルの能力を考えれば、彼の全試合出場は確約されたものだ。

日本代表でのステップアップのために最良の選択か?

 伊野波のハイドゥク入団の背景にあるのは、本人の海外移籍に対する強い願望と、日本人獲得を狙ったハイドゥクの利害が一致したためだ。スプリトの対岸は伊野波があこがれるイタリア。スプリトはベネチア帝国に長く支配され、イタリア文化が深く入り込んだ土地である。移籍の仲介役を務めた同国出身の代理人マウリツィオ・モラーナも、伊野波のセリエ売り込みには動きやすいはずだ。

 また、新会長のフルボイエ・マレシュは胸スポンサーを獲得するため、日本のトップ企業であるトヨタと交渉した(結果的に失敗に終わるも、車30台の提供を受ける)。スポーツ・ディレクターのミロ・ニゼティッチは伊野波獲得の理由を包み隠さず語る。

「1カ月半にわたってわれわれは伊野波を追ってきた。あらゆる理由で日本人選手が欲しかったのさ。数ある候補の中でも伊野波を選んだのは、彼は本物のアスリートであり、勝利者だからだ。ディフェンスならばどこだってプレーできる。それとは別に、伊野波の獲得はわれわれに対して日本市場を開くことになる。今は、日本の誰もがハイドゥクを知っているんじゃないかな」

 日本代表のチームメートがドイツを中心とする西欧に次々と移籍する中、あえてクロアチアを選んだ伊野波。「代表で結果を残すためには、もう一段階レベルアップする必要があると感じている」(鹿島公式サイトから引用)と本人が語るように、海外移籍は日本代表での活躍も見据えた上の決断であるものの、ハイドゥクが最良の選択だったかは大きな疑問が残る。
 王者ディナモとの戦力差は歴然としており、リーグ優勝はすこぶる困難。ヨーロッパリーグ(EL)は予備戦3回戦からの出場だが、新加入選手が多くて連係すらおぼつかない状況で3回戦とプレーオフを抜け、本選に進出するのは幸運が訪れない限り無理だ(本選進出した昨年は、プレーオフの相手が破産寸前という幸運に恵まれた)。スピーディーなサッカーのJリーグと異なり、鈍重なクロアチアリーグのサッカーに慣れてしまうと、下手をすれば伊野波本人のレベルダウンにつながってしまう。

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著者プロフィール

1973年名古屋生まれ。サッカージャーナリスト、通訳。同志社大学卒業後、都市銀行に就職するも、97年にクロアチアで現地観戦したディナモ・ザグレブの試合に感銘を受けて退職。以後はクロアチア訪問を繰り返し、2001年に首都ザグレブに移住。10年間にわたってクロアチアや周辺国のサッカーを追った。11年から生活拠点をリトアニアに。訳書に『日本人よ!』(著者:イビチャ・オシム、新潮社)、著作に『旅の指さし会話帳 クロアチア』(情報センター出版局)。スポーツナビ+ブログで「クロアチア・サッカーニュース」も運営

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