無名大学が天皇杯で刻んだ新たな一歩=前田監督率いる東京国際大学の挑戦
Jクラブから無名の大学へ
水戸を離れた後、前田氏は東京国際大学からのオファーに意気込み感じ、監督を引き受けた 【佐藤拓也】
天皇杯2回戦、浦和レッズに0−7という大敗を喫したものの、就任して2年半、実質強化して1年半というわずかな歳月でこの場に立てたことに対して、東京国際大学監督・前田秀樹は万感の思いを抱いていた。
「こんなに早い段階でJ1と公式戦で戦えるなんて夢にも思わなかった」
2008年2月1日、前田は寒風吹きすさぶ秩父の山のふもとのグラウンドに立っていた。東京国際大学という、サッカーにおいては無名の大学。そのサッカー部の監督に前田は就任することとなったのだ。かつて日本代表としてAマッチ65試合出場・11得点という記録を残し、古河電工サッカー部でもキャプテンとして黄金期を築いた。引退後はジェフ市原(現千葉)の育成に携わり、阿部勇樹(レスター)や山岸智(サンフレッチェ広島)、村井慎二(千葉)といった、その後“オシムチルドレン”と呼ばれる選手を育て上げ、さらに5年間監督を務めた水戸ホーリーホック時代には田中マルクス闘莉王(名古屋グランパス)を発掘するなど、数々の実績を挙げてきた前田にとってあまりにも寂しい再出発の場と思われた。
しかし、前田の目は輝きを放っていた。
「水戸を離れることになっていくつかのオファーがあったのですが、まさかまったく無名の大学からオファーが来ると思っていませんでした。でも、実際に話を聞くと、わたしに懸ける強い意気込みを感じましたし、やはり学校としてスポーツに真剣に力を入れているということが見えたのが大きなポイントでした。当時は土のグラウンドでしたが、サッカー専用の人工芝のグラウンドを建設するとのことでしたし、それに加え、野球部に広島カープを日本一に導いた古葉竹識さんを監督として迎えていたことが大きかった。大学でプロの監督を招へいするという今までではあり得ないことを実現していたので、そういうところにこの大学がスポーツ界を変える可能性があると感じたんです。学校側の意気込みが半端ではないということが分かったので、やってみようと決意したのです」
目に映ったのは“弱小サッカー部”
弱小サッカー部から戦う集団へ。前田監督の指導の下、選手たちは着実に力をつけていった 【佐藤拓也】
そして、次なる挑戦の場としてやって来た東京国際大学だったが、目の前の事実にさすがの前田も驚愕(きょうがく)することとなる。部員はわずか20人弱、練習初日の参加人数は8人。用具も空気の入っていないボールに、カラーコーンと2本のポールだけ。さらに練習を始めると、ウオーミングアップのランニングで周回遅れの選手が出る始末。前田の目に映ったのは、前年に埼玉県大学1部リーグで7戦全敗、0−10という惨敗を喫したこともある“弱小サッカー部”そのものの姿であった。初日の練習が終わると「本当に大丈夫かな」と苦笑を見せた。だが、前田の目から輝きが失われることはなかった。
「ゼロからではなくてマイナスからのスタートでしたね。でも、監督が戦術や技術だけを教えているチームに魅力はない。監督も選手もみんなが1つの目標に向かって苦労して、乗り越えていくことが大切だと思ったんですよ。この状況からどうやって素晴らしいチームにするか、トップクラスまでいける選手を育てるかという夢や目標ができた。だから、やりがいがあったんですね」
監督就任後、前田の下でプレーしたいという選手20人が入り、“さま”にはなっていった。そして、何と言っても照明付きの人工芝のグラウンドができたことが大きな変化であった。サッカーに取り組む環境が整い、選手たちは練習に没頭できるようになった。結果的に1年目は埼玉県大学2部リーグで勝ち点2差の2位に終わり、1部昇格を逃すこととなったが、前田にはチームの確かな変化が見えていた。リーグ最終戦、首位を走る相手と1−1のドロー。それまで歯が立たなかった相手に互角の戦いを演じたのだ。
それだけではない。試合後、選手たちが始めて悔し涙をこぼした姿を見て前田はチームの可能性を感じたという。「目標を達成することが簡単ではないことを選手たちは学んでくれた。その悔しさが今後の糧になればいい」。1年という歳月の末、東京国際大学は“戦う集団”へと変化を遂げた。