最下位・横浜FCはどこへ向かうのか=J2低迷の原因
明暗を分ける監督交代
J2第20節を終え、横浜FCが白星を飾ったのはわずかに2度。低迷が続く 【Photo:北村大樹/アフロスポーツ】
2006年、横浜FCは高木琢也監督(現東京ヴェルディ監督)の下、“ハマナチオ”と呼ばれた堅固な守備を基盤にチームは破竹の快進撃を続け、念願のJ1昇格を果たした。クラブ史上最高の歓喜に満ち溢れたシーズンとなったが、前年から指揮を執っていた足達勇輔監督が第1節で解任されるというショッキングな事件からスタートを切ったのであった。
第2節から指揮を執った高木監督は、たぐいまれなタクトでチームを見事に立て直すことに成功したが、当時の高木監督は初めてトップチームのコーチに就いたばかり。監督交代の判断は大きなばくちと言えるものであった。だが、そのばくちに勝ったことで、クラブは監督交代に味を占めるようになってしまったのである。06年からの4年間で5人の監督を迎えることとなった横浜FC。必然よりも偶然を追い求め、“監督交代癖”がついたことでチームに継続した力を根付かせることができず、低迷を招くこととなってしまった。
継続した力の必要性
「05年に足達監督の下でかなりハードな練習をやってチームとしてのベースができたし、力が蓄積されて貯金にもなった。あの年の終盤は本当に手ごたえがあったし、変化の兆しを感じることができた」
それまで主に育成面で力を発揮してきた足達監督は当時若い選手の多かったチームにハードな練習を課し、目の前の結果だけにこだわるのではなく、選手個々の成長を促し続けた。チームは結果が出ない日々が続いたが、菅野孝憲(現柏レイソル)や内田智也(現大宮アルディージャ)、北村知隆(現モンテディオ山形)ら翌年にチームの中心となる若手が急成長を遂げていった。そして、着実にチームは力をつけていき、リーグ終盤には上位相手にも互角以上の展開に持ち込めるようになっていったのだ。
同年の天皇杯4回戦では大黒将志やアラウージョといった強力なアタッカーを擁してリーグ制覇を成し遂げたガンバ大阪相手に3−3という激戦を演じてPK戦に持ち込むなど、戦いぶりは日々進化を遂げたのである。「足達監督のときに基盤ができ、そこに高木監督のコンセプトが加わってチームは進化していった。1つ1つ段階を踏んで継続した力をつけたからこそ昇格できたと思っています」と早川は当時を懐かしむように語った。
J1昇格が決まった直後、中村有コーチ(現東京Vコーチ)は真っ先に足達氏に電話を入れて感謝の念を述べ、数日後には選手たちが足達氏を招いて食事会を開催したという。そういったエピソードを聞くだけで、チームにとって05年がどれだけ大きな意味を持っていたかを知ることができる。しかし、その05年を否定するかのごとく、足達監督を翌年わずか1節で解任。J1昇格という結果を出したものの、その後は迷走を続けることとなった。あの“解任”は本当に成功だったのだろうか。
横浜FCが目指すサッカーとは
翌年、都並敏史氏と3年契約を結び、長期ビジョンでのチーム作りを委ねることとなった。1年目の昨季はチームの基盤となる守備の整備と選手層の強化に力を注ぎ、シーズン終盤は7試合負けなしという安定した戦いができるようになるなど、都並監督は長期ビジョンでのチーム作りを忠実にこなした。しかし、結局は10位に沈んだという成績不振を理由に1年で解任されてしまった。どの監督も契約当初にクラブが提示したものとは異なった基準を理由に、志半ばでクラブを去る運命をたどったのだ。
問題なのは監督の人選に一貫性がないことだ。守備を基盤にチームを作った高木監督から、徹底したパスサッカーを展開するジュリオ・レアル監督へ。そして、再び守備にベースを置く都並監督となり、今年は攻撃的なサッカーを志向する樋口靖洋監督が指揮を執っている。
「これだけ毎年戦術が変わると、ついていくのが大変」と、ある選手がこぼしていたように、“横浜FCが目指すサッカー”を示せずにいることが選手たちに戸惑いを与えている。勝敗以前に、まずは横浜FCのサッカーを構築することが必要となるだろう。