神への手紙 野茂とジョーダン=小グマのつぶやき

阿部太郎

青春期に刻み込まれた鮮やかな野茂の記憶

 野茂英雄が引退した翌日に、ホワイトソックス戦でシカゴを訪れていたロイヤルズのトレイ・ヒルマン監督に話を聞いた。野茂のキャリアについてどう思うかと問いかけると、真摯(しんし)な表情をいっそう引き締めるようにして話してくれた。ヒルマン監督いわく「野茂の歴史は決して生易しいものではなかった。裏切り者と見なされてから英雄になるまで、彼には精神的に克服しなければならないことが山ほどあった」。異国の地で成功することの難しさを熟知している監督ならではのコメントだろうか。何かに思いをはせたような顔つきは非常に印象的だった。彼の視線は数人で囲んだ記者ではなく、遠くかなたを見つめているようであった。

 個人的に、野茂が活躍した1995年は青春真っ盛りの高校生。にきびと、テンパーの髪質と女の子の視線ばかりを気にするごくごく平凡な学生にも、野茂はかなりのインパクトを残した。まだ幼かったからか、ヒルマン監督が言った「裏切り者に見なされた」という印象を抱いた記憶はない。こういう仕事をしてから、メジャーリーグに行く過程でいろいろとあったことは知ったが、その当時、野茂英雄は自分の中ではもうヒーロー以外の何者でもなかった。

 あの当時を思い出すと、ひとつの映像が繰り返し、繰り返し再生テープのように浮かんでくる。野茂が打者と対峙して、あのトルネード投法からキャッチャーミットめがけて思いきり投げ込む。伝家の宝刀フォークにメジャーリーグの一流打者はまるで三流打者のようなぶざまな空振りをする。そして、現地実況のアナウンサーが少し間の抜けた発音で、こう叫ぶ。

「サァーン・スィン」

 今でもこの発音はうまくできる。本当に現地アナウンサー並に。普段の英語の発音はひどいものだが、アメリカ人と同じぐらいうまく発音できるのは、「サァーン・スィン」と「イッチィルォー」と「フックドォメー」ぐらいである(自己評価だが……)。

もしジョーダンと対戦していたら……

1995年、ドジャースに入団した野茂は全米に“トルネード旋風”を巻き起こした 【Getty Images/AFLO】

 野茂がテレビでインタビューを受けたときの映像はいつも朴訥(ぼくとつ)としていたが、それが非常に心地良かったのを覚えている。あまり話している姿を見たくなかったのかもしれないし、彼の投球だけに酔いしれたかったのかもしれない。ある人がテッド・ウィリアムズのマスコミ嫌いに対して「神々はいちいち手紙の返事を書かないものだ」と言ったというが、まさに野茂は神に近い存在。返事はグラウンドで見せてくれれば良かった。

 さて、この1995年はもう一人の神が再び慣れ親しんだコートに舞い降りた。マイケル・ジョーダンである。野球好きのかたわら、バスケットボールも大好きという中途半端な学生であった私は、それこそ野茂の快進撃に心を躍らせ、ジョーダン復帰に胸を熱くさせた。ただ、神同士は交わらなかった。

 その前年、ジョーダンはメジャーリーグを目指してホワイトソックス傘下のマイナーチームでプレーしているのである。もし、ジョーダンが野球で成功を収めて、野茂と対戦していたらどうなったであろうか? ドジャースとホワイトソックスだったら、あまり当たる確率はないし、インターリーグは1997年から始まったから、対戦するとすればワールドシリーズ。うーん、想像するだけでも難しいけど。ジョーダンは俊足だったから、野茂のフォークをかろうじてバットに当て、サード内野安打とか……夢がないですね。では、「サァーン・スィン」か「ホォームラン」で。

色あせない情熱

 ところで、現役時代のジョーダンを取材する機会はついぞなかったが、今春のキャンプで、野茂の取材をすることはできた。もちろん、単独でというわけでなく、囲みではあったが、何か不思議な感覚にとらわれたことを覚えている。グラウンドでの野茂はあの当時とはかなり趣を異にしていた。ダイナミックなトルネードは「腕にストレスがかからないため」に、セットポジションに変わっていた。球速の衰えははっきりと確認でき、伝家の宝刀フォークは打者に見切られる変化球になっていた。
 だが、変わらずに持ち続けているであろう野球への情熱は圧倒的だった。バントの守備練習では、ポジショニングに関してコーチとしきりに相談していた。若い選手には、笑顔で球の握りを教えていた。そして、インタビューはあの当時と変わらず、朴訥として、言葉少なだった。メディアとしてはもちろん残念ということになるが、個人的には何かうれしさを感じた。あの時と同じ、「返事はグラウンドで」という雰囲気が心地良かった。

 野茂は引退に際して「後悔している」と話したらしい。ジョーダンは2度の引退撤回で、コートに舞い降りた。もう一人の神だって、その権利はある。

 手紙の返事を、もう一度グラウンドで返してほしい。

<了>
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著者プロフィール

1978年1月9日生まれ、大分県杵築市出身。上智大卒業後、シアトルの日本語情報誌インターンを経て、スポーツナビ編集部でメジャーリーグを担当。2008年1月より渡米し、メジャーリーグの取材を行う

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