世界一幸せなスポルティング育ちの選手たち スポルティング対マンU戦に見た固い絆

鰐部哲也

スポルティング出身C・ロナウドとナニの凱旋試合

この夏にマンUに移籍したナニは、早くも古巣スポルティングとの凱旋試合を迎えた 【Getty Images/AFLO】

「Sporting Clube de Portugal」(以下、スポルティング)

「ポルトガルのスポーツクラブ」という正式名称を持つ首都リスボンのクラブは、その名の通り、世界で活躍する数多のポルトガル人アスリートを次々に輩出してきた。それは、この国の国民的スポーツであるサッカーにおいても例外ではない。
 スポルティングの選手発掘にかける熱意は、北海道と四国を合わせたぐらいの国土しかない小国の各都市に約300人のスカウトを常駐させていることからもうかがえる。
 ポルトガルの“英雄”フィーゴをはじめ、現在のポルトガル代表で活躍するシマゥン、リカルド・クアレズマ、クリスティアーノ・ロナウド、ナニらは、スポルティングの“目利き”たちによって発掘され、“原石”から良質な“ダイヤモンド”に磨き上げられ、海外のビッグクラブに買われていった選手たちである。

 そして今回、“ダイヤモンド”となった2人の選手がかつての「学校」であり「仕事場」に凱旋(がいせん)した。その2選手とはクリスティアーノ・ロナウドとナニである。
 19日に行われた欧州チャンピオンズリーグ(CL)グループリーグ第1節のスポルティング対マンチェスター・ユナイテッド(以下、マンU)の一戦に際して、ポルトガル国内では「2人の“息子”の帰還」という話題で持ちきりであった。とりわけ、スポルティングの指揮を執ったパウロ・ベントにとっては、感慨深いものがあったに違いない。

 2001年夏のプレシーズン、初めてスポルティングのトップチームの合宿に参加を許された2人の早熟の天才がいた。当時17歳のクアレズマ(現ポルト)と当時16歳のロナウドである。そして、この合宿期間中、居心地が悪そうな新入生2人の面倒を積極的にみていたのが、当時ポルトガル代表でもボランチとして活躍していたパウロ・ベントなのである。
 ロナウドは当時を振り返って、「パウロのサッカー選手としての態度がとても気に入ったんだ。プレーしている時でもしていない時でも常にプロとしての心構えを持っていたし、その心構えやメディアの前での立ち居振る舞いなんかを常に僕らに教えてくれたんだ。それはとても分かりやすかったし、多くのことを彼から学んだよ。とにかく僕らを引きつけるような気持ちのこもった教え方をするんだ。もし、彼がまだ現役でプレーしていたとしても、僕は、彼が将来、最高の指導者になるに違いないと言うと思うね。今でもあの時のことは忘れないよ」と語っている。
 パウロ・ベントがポルトガル代表引退後、くしくも自身が着けていた背番号「17」を受け継いだのがロナウド。パウロ・ベントにとってロナウドは弟のような存在であった。

 2004年に現役を引退したパウロ・ベントは、そのままクラブに残って、スポルティングのジュニアチームの監督に就任した。そして2005年6月25日、最大のライバルであるベンフィカを1−0で下したスポルティングは、国内ジュニアのタイトルを見事獲得。“指導者”パウロ・ベントにとってもうれしい初タイトルだった。
「もし(ベンフィカとの)試合の前に、『優勝できなかったらこれが監督として最後の試合になります』という契約書にサインしろと言われたとしてもすぐにサインしていただろう。私の選手たちをもってして勝てないとはこれっぽっちも思わなかったからね」と、パウロ・ベントは試合後に喜びのコメントを残している。そして、指揮官に“私の選手”と言わしめたのが、昨季のスポルティングのトップチームを引っ張った、ジョアン・モウティーニョ、ヤニック、ミゲル・ベローソと、そしてナニのいわゆる「86年組」(※全員が86年生まれ)である。

 ロナウドを大西洋沖の世界遺産、マデイラ島から発掘してきた敏腕スカウトのアウレリオ・ペレイラ氏が、この国内ジュニア優勝のちょうど3カ月前に取材に応じてくれた時に、「将来、ロナウドに続くタレントはジョアン・モウティーニョかナニだろう」と予想したとおり、この年、ジョゼ・ペゼイロ監督の解任の後を受けて一軍の監督に抜擢されたパウロ・ベントは、8月28日の第2節マリティモ戦でナニをいきなりデビューさせた。その後、ナニはトップチームの中心選手となっていくが、指導者になったパウロ・ベントが手塩にかけて育ててきた選手こそがナニなのである。

 2003年8月6日、自国開催のユーロ(欧州選手権)のために改装されたスポルティングのホーム、ジョゼ・アルバラーデスタジアムのこけら落としとなった、スポルティング対マンU戦で、緑のしま模様のユニホームをまとった背番号「28」のプレーに釘付けとなった敵将“サー”アレックス・ファーガソンは、18歳のロナウドを1659万ユーロ(当時約22億円)の移籍金でオールド・トラフォードへ呼び寄せた。

 一方のナニに関しては、マンUがポルトガルに9回も送り込んだ視察団の報告を受けたファーガソンが、2006年12月1日、スポルティング対ベンフィカのリスボンダービーにわざわざ足を運んでプレーをチェック。獲得にGOサインが出たことで、今夏、2550万ユーロ(約41億9000万円)の移籍金で「赤い悪魔」のユニホームに袖を通すことになった。

 そんな背景と舞台装置が整った今回のスポルティング対マンU戦は、ポルトガル国民ならずとも、ポルトガルサッカーをずっと追ってきた私のような東洋人も多少、感傷的にならずにはいられない試合だったのである。

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著者プロフィール

1972年10月30日生まれ、三重県出身。2004年から約4年間ポルトガルのリスボンに在住し、日本人初のポルトガルスポーツジャーナリスト協会会員としてポルトガルサッカーを日本に発信。昨年8月に日本帰国後は、故郷の四日市市でブラジル人相手のポルトガル語の通訳、翻訳、生活相談員の仕事に従事しながら、サッカーライターへの復帰を模索する毎日である。

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