ブラジルの“奇跡のクラブ”を襲った悲劇 国内外から寄せられる哀悼の意と救済

沢田啓明

格上パルメイラスに勇敢に戦った後、悲劇が……

コパ・スダメリカーナ決勝のため、飛行機でコロンビアに向かっていたシャペコエンセの選手たちが悲劇に見舞われた(写真は11月16日のボタフォゴ戦のもの) 【Getty Images】

 2016年11月27日午後(現地時間、以下同)、サンパウロにあるパルメイラスの本拠地は4万人を超える観客で超満員だった。ブラジル全国選手権1部、第37節のシャペコエンセ戦。この試合でパルメイラスが引き分け以上なら、22年ぶり5度目(前身の全国大会タッサ・ブラジルを含めると9度目)の優勝が決まる。シャペコエンセは完全な“敵役”で、選手たちは地元観衆から容赦のない罵声を浴びた。

 前半25分、パルメイラスが先制し、さらに追加点を狙う。このような厳しい状況でも、シャペコエンセの選手たちは全くおじけづいていなかった。再三、危険なカウンターを繰り出して相手ゴールを脅かす。結果的に0−1で惜敗したが、クラブの歴史、実績、実力などあらゆる点で格上のパルメイラスに対し、最後まで勇敢に戦った。

 ブラジルサッカー界で前例のない悲劇が起きたのは、それからわずか30時間後だった。30日に予定されていたコパ・スダメリカーナ(欧州のヨーロッパリーグに相当する南米のカップ戦)決勝で、アトレティコ・ナシオナル(コロンビア)との第1レグを戦うため、サンパウロからサンタクルス(ボリビア)を経てチャーター便で試合地メデジン(コロンビア)へ向かっていた際、飛行機が空港の約30キロ手前の標高3300メートルの山岳地帯に墜落したのである。雷雨のため、救助作業は難航した。

 飛行機には当初、乗客・乗員81人が乗っていたと伝えられ(その後、名簿中の4人が乗っていなかったことが分かり、コロンビア当局は搭乗者を77人に修正)、救助されたのは選手3人(DFアラン・ルシェウ、DFネット、GKジャクソン・フォルマン)、ブラジル人ジャーナリスト1人、乗務員2人の6人だけ。選手19人、監督、コーチを含むクラブ関係者28人、報道関係者21人、乗務員8人の計76人が亡くなったとされていた(GKダニーロ・パリージャは、一度は救助されて病院へ搬送されたが、その後、死亡が確認された。当局は最終的な死亡者を71人と発表)。救出された5人のうち、フォルマンは右足を切断され、他の2選手とブラジル人ジャーナリストも骨折や強度の打撲で重体と伝えられている。

 事故の原因について、メデジン国際空港の関係者は、事故直前に飛行機の乗員から電気系統の故障を知らせる緊急連絡を受けたことを明らかにしている。

ケンペスら元Jリーガーも犠牲に

犠牲者の中にはJリーグ経験者が5名。神戸を率いていたカイオ・ジュニオール監督もその1人とされる 【(C)J.LEAGUE PHOTOS】

 犠牲者の中には、Jリーグ経験者が5人いた。09年にヴィッセル神戸を率いたカイオ・ジュニオール監督、05年に柏レイソルでプレーしたMFクレーベル・サンタナ、12年にセレッソ大阪、13〜14年にジェフ千葉で活躍したFWケンペス、10年に京都サンガでプレーしたDFチエゴ、川崎フロンターレに昨シーズン在籍したMFアルトゥール・マイア。一方、15年にアビスパ福岡に所属していたボランチのモイゼスは、遠征メンバーに入っていなかったため難を逃れた。また、09年にコンサドーレ札幌でプレーしたMFラファエル・バストスは、今年6月からシェペコエンセに在籍していたが、10月にハッタ・クラブ(UAE)へ移籍していた。

 元ブラジル代表MFマリオ・セルジオは現在、ブラジルのスポーツテレビ局の解説者で、試合のためにメデジンへ向かっていて犠牲となった。現役時代は驚異的なテクニシャンで、1983年に東京・国立競技場で行われたトヨタカップ(現クラブワールドカップ)でグレミオの中心選手としてハンブルガーSVを下してクラブ世界王者となり、87年に引退すると国内ビッグクラブの監督を歴任していた。ビトリーノ・シェルモンらブラジルの著名ジャーナリストも、命を落としている。

 ブラジルのいくつかのスポーツTVは、29日の早朝からすべての番組をキャンセルして、一日中、事故の続報を流した。顔見知りの選手、親交のあるジャーナリストの多くが犠牲になったことから、涙を流しながらインタビューに答えるフットボール関係者、報道を続けるジャーナリストが少なくなかった。

 体調不良のためコロンビア遠征へ参加するのを断念して命拾いしたシャペコエンセのイバン・トッゾ副会長は、「あり得ないことが起きてしまった。とても信じられない」と号泣した。

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著者プロフィール

1955年山口県生まれ。上智大学外国語学部仏語学科卒。3年間の会社勤めの後、サハラ砂漠の天然ガス・パイプライン敷設現場で仏語通訳に従事。その資金で1986年W杯メキシコ大会を現地観戦し、人生観が変わる。「日々、フットボールを呼吸し、咀嚼したい」と考え、同年末、ブラジル・サンパウロへ。フットボール・ジャーナリストとして日本の専門誌、新聞などへ寄稿。著書に「マラカナンの悲劇」(新潮社)、「情熱のブラジルサッカー」(平凡社新書)などがある。

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