小山伸一郎 “便利屋”の自己証明 中日、楽天でのプロ生活19年を語る
恐怖心と戦った中日時代
19年の現役時代を振り返った小山 【写真=BBM】
――引退に至るまでの経緯をあらためて聞かせてください。
正直、あと1年はやれるという気持ちで2015年シーズンを過ごしていたんです。球団には、4月に右肩の内視鏡手術をすることを許してもらったし、それだけに「もう1年は投げさせてもらえるんじゃないか」、そんな気持ちもどこかにありました。だから、なんとかシーズンが終わるまでに1軍に上がりたい、チームの戦力になりたいという思いで練習していたんです。でも、9月の中旬くらいに球団から連絡が来ました。僕も長いこと野球をやっていますから、その時期に連絡が来るということは「そういうことなんだな」と思いましたよ。
――そのころ、星野仙一氏がシニアアドバイザーという立場から、球団の取締役副会長に就任しました。
星野さんが副会長に就任したと聞いた時点で、辞めさせられるのかな、とは思いました(笑)。11年に星野さんが楽天の監督に就任した際、「オレはお前の“送り人”としてここに来たんだ」と冗談っぽくおっしゃったんです。1軍でバリバリ投げているころだったので、そこではジョークと捉えることができましたけど。でも、星野さんに「辞めろ」と言われるのならば、それは本望かなと思いました。始まりが星野さんだったので、辞めるときも星野さんがいいと。
――星野さんとはどんな会話を?
直接は会っていないんです。僕から電話をしたんですが、「お前、150キロは出るようになったのか。肩の状態、いいらしいな」と(苦笑)。そして「(二軍投手コーチという)ポストを用意してあるから、若手をビシビシと鍛えてやってくれ」と言われたので、「分かりました」と。
――やはり決断に至るまでの過程では星野さんの存在が大きかった?
もう、それだけですよね。最初の監督が星野さんでなければ、こんなに野球を長く続けていなかったでしょうし。巡り合わせで楽天の監督になられて、13年の日本一も経験させてもらって。何か運命的なものを感じてしまいますよね。
「気の弱さが出た」と中日時代を振り返る 【写真=BBM】
ハッハッハ! それはよく覚えていますね。当時は何もない高校で、ほとんど我流でやってきて、ある程度スピードが出ていたので、一流の先輩方、コーチに教われば出せると思ったのでしょう。今思えば浅はかな考えですけどね(苦笑)。でも、僕はずっとスピードボールにこだわってやってきましたから。
――99年にプロ初登板を果たすも、1軍定着はなりませんでした。
当時のドラゴンズはとにかく豪華な投手陣でした。その中で1軍に上がれたという喜びはありましたけど、やはり残れなかったという悔しさのほうが大きいですね。
――リーグ優勝した年ですね?
優勝を決めたのは神宮球場ですよね。その試合で山崎武司さんが骨折されて。最後のマウンドには宣(銅烈)さんがいましたよね。僕は寮のテレビで見ていましたけど、打者が内野にフライを打ち上げた瞬間にチャンネルを替えました。
――その瞬間は見たくなかった?
1軍で3試合しか投げていなくて、自分の中で歯がゆさがあったんです。恨みじゃないですけど、反骨心しかなかったですね。
――中日時代はなかなかスポットが当たる機会はありませんでした。
ファームでは納得のいく球を投げられたけれど、もともと持っていた自分の気の弱さが出ました。叱られることで小さくなっていたというか……。僕みたいな信頼のない立場だと、ちょっと失敗しただけですぐに2軍に落とされてしまうんです。ファームでどんなに好投しても、層の厚い1軍投手陣の中ではどうやっても敗戦処理からのスタート。知らず知らずのうちに自分を追い込んでいたのかもしれない。当時はバッターと対戦していなかった気がします。2軍に落ちたくないという恐怖心と戦っているうちは、結果なんて出るわけがないですよね。