小山伸一郎 “便利屋”の自己証明 中日、楽天でのプロ生活19年を語る

週刊ベースボールONLINE

勝てない日々から救援の立場を模索

涙、涙の引退セレモニー 【写真=BBM】

 野球人生のターニングポイントは、楽天への移籍だった。創設当初の選手層の薄さは、中日時代になかなか1軍に割って入れなかった男の追い風となる。ただ、勝てない日々が続いた。屈辱という泥にまみれた球団の草創期。そこからゆっくりとはい上がっていく様は、小山の成長曲線とリンクしているようだった。

――2004年オフに楽天への無償トレードが決まります。

 そりゃもう、飛び上がるほどうれしかったですね! 編成の方から電話があって、受話器を握ったまま「ありがとうございます!」と頭を下げたくらいですから(笑)。自分の中で「もっとやれる」という思いがありました。ただ、中日は僕をそう見てくれていなかったから。レッテルというか、悪いイメージってなかなか払拭(ふっしょく)できないし、それが邪魔になる部分も多かった。でも、新しい球団ならフラットな目で見てくれると思ったんです。

――「無償トレード」という言葉自体にポジティブなイメージはありませんが、本人の受け止め方は違った。

 やってやる! その気持ちしかなかったですね。

――東北へ行くことになりました。

 東北で野球をやったことがなかったので、「どんなものかな?」という楽しみしかなかったです。すでに結婚をして、妻のお腹にも子どもがいたころ。妻は、僕が中日で腐っていたことを分かっていたので、新しいチャレンジを認めてくれて、2人で仙台に引っ越しました。

――球団にとっても小山さんにとっても新たなスタートとなった05年、自身1年半ぶりの勝ち星が球団初の救援勝利となりました。

 新しい球団ですから、何をやっても“初”になりますよ(笑)。僕としては抑えにあこがれを持っていたんですけど、なかなか結果が出せなかった。そんな1年でしたね。

――抑えへのあこがれとは?

 中日の2軍時代に抑えをやらせてもらって、完了してみんなとハイタッチするのが喜びになったんです。先発だと、最後まで1人で投げ切らないとできないじゃないですか。勝利の瞬間にマウンドにいたい。目立つ場所が好きだったから、そこを目指したんですけどね。
――楽天1年目、チームは38勝97敗(1引き分け)で借金59。勝率2割8分1厘という惨敗でした。

 チーム状態はひどかったですよ(苦笑)。特に、僕は中日という非常に厳しいチームから来たので。負けても誰一人として悔しがっていない。確かにプロ野球は高校野球のようなトーナメントではない。負けたら次に切り替えることは必要ですけど、あまりにも「次」「明日」を使い過ぎる。で、結局、次の日も負けるんです。「次って言ったって、いったい何連敗しているんだ?」。そう言いたくなるようなチームでした。何やっているんだ、でも、何もできない……と。

――希望する抑えにはなかなか定着できませんでした。ただ、07年にチャンスが舞い込みます。

 毎年のように抑えとして期待されるんですが、なかなか応えられなかった。この年もオープン戦で結果を残せず、二軍スタートだったんですよ。下で結果を残しても、上からはなかなか声が掛からず、自分の中では「見切られたかな」と感じていました。交流戦明けの7月頭くらいにようやく1軍に上がったんですけど、そこでもなかなか登板機会を与えてもらえなかった。

――我慢の日々だった。

 でも、オールスター休み前の登板機会でコンスタントに結果を残すことができたんです。そして休み明け、抑えの福盛(和男)さんのヒジの状態が良くないと聞きました。それで代役として声が掛かったんです。とにかく無我夢中でしたね。

――このシーズン、16セーブを挙げて、防御率は0.58という素晴らしい数字を残しています。

 怖さも知らず、打者に向かって漠然とボールを投げていた気がします。ただ、中日時代と違ったのは、頼りにされているという実感です。意気に感じて投げていました。楽天で9回を任せてもらえるようになり、もう投手は自分しかいない。すべての責任を背負って投げていました。それが良い方向に働きましたね。

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