オランダで戦う日本人フィジオセラピスト コンディショニング道を極める中田貴央

中田徹

オランダ2部デン・ボスに所属

VVVの藤田俊哉コーチ(右)は、デン・ボス戦で日本人フィジオセラピストの中田貴央と出会った 【中田徹】

 3月16日のオランダ2部リーグ、VVV対デン・ボスのキックオフまで、1時間を切った頃だった。記者室にメンバー表が配られると、デン・ボスの地元紙『ブラバント・ダッハブラット』のジャーナリストが「アントニーの名前がない!」とすっとんきょうな声を出した。アントニー・ルーリンはヘーレンフェーン、フェイエノールト、ケルン(ドイツ)に在籍した実績もあり、デン・ボスにとっては頼れるベテランFWだった。

 デン・ボスのチームマネージャーが「アントニーはハムストリングの負傷が治りきっておらず招集外。今朝テストをしたけれど、“うちのフィジオセラピスト(理学療法士)”が出場の許可を出さなかったんだ」と答えた。

 ジャーナリストは「おかしいな。俺、昨日の練習でアントニーを見たんだけどな……」とひとりごとを言い、それから気を取り直すように「まあ、いいか。今日は別に重要な試合じゃないからな」と冗談を飛ばした。

 その“フィジオセラピスト”とは、日本人の中田貴央(25)だった。キックオフ前、VVVのベンチ前で相手チームの監督、フィジオセラピスト、そして藤田俊哉コーチとあいさつを交わしてから自軍のベンチへ向かった。そして、右ウイングのダレン・マーツェンが90分間プレーできるよう、祈るような気持ちで試合を見た。

「彼はそけい部を痛めていたけれど、朝のチェックで大丈夫だと判断した。それでもし、彼が前半でダメになったり、次の試合に出られなくなったりしたら、選手に対して悪いし、僕の責任にもなる。かと言って(試合に)出さなければ、チームのパフォーマンスに影響する。難しいですね……」

藤田「トップチームに潜り込めるのはすごい」

 幸い、マーツェンはフル出場を果たしたが、左ウインガーを務めたジョイ・ベルターマンが接触プレーで足首を痛め、わずか38分で負傷退場した。中田はマッサーと2人掛かりでベルターマンを更衣室へと連れて行き、そこで骨折がないこと、じん帯が切れてないことをチェックしてから、そこにあるだけの氷を砕き、患部を冷やした。

 試合は4−0でVVVが勝利。「悔しいです」と中田は言うが、フィジオセラピストは監督でもコーチでもないから、勝負に介入できないのがもどかしい。試合後のクラブハウスで中田と話をした藤田は言う。

「あの若さで、オランダのプロクラブのトップチームに潜り込めるのはすごいよね。オランダのプロクラブにとっては、コーチもメディカルスタッフもオランダ人で十分。わざわざ日本人を獲る必要はない。俺もVVVのコーチになる時大変だったから、それは分かる」

 日本で取得したJFA(日本サッカー協会)公認のS級ライセンスを、オランダで書き換えるのに藤田は苦労している。中田もまた、日本で取得した理学療法士の資格を、オランダで書き換えるのに相当手こずっており、ようやく正式に認可が降りそうなところまできた。日本人として前例のないことをしているのだから、藤田と中田はお互いに分かりあえるところがある。2人は試合後、固い握手を交わして健闘をたたえあった。

“サッカーのコンディショニング”の道を極めたい

 中田は小学校時代、地区トレセンに選ばれたほどの選手だったが、ジュニアユースの3年間で公式戦にたった10分間しか出ていない。サッカーは好きだが、プロにはなれないことを悟った中田は、フィジオセラピストになることを決意。昭和大学で理学療法を学ぶことにした。体育科にはヴァンフォーレ甲府でアスレティックトレーナーをやっていて、現在は法政大学で准教授を務める朝比奈茂がいた。

「『お前ら、いいものを見せてやろう』と朝比奈先生が言って、取り出したのがJリーグのクラブから来た、『知り合いを紹介してほしい』という求人の手紙でした。それまで雲の上の存在だったJリーグのクラブが、ごく近いところでメディカルスタッフを探しているのを知り、自分も好きなサッカーの世界で食べていきたいと思いました。その時、初めて自分の頭の中で“サッカー”と“フィジオセラピスト”が結合し、“サッカーのコンディショニング”の道を極めようと思った瞬間でした」

 大学4年の時、“サッカーに特化したピリオダイゼーション”の第一人者、相良浩平(アイセルメールフォーゲルス、関連リンク「コンディショニングが高めるサッカーの質」を参照)と話をしたこともあり、卒業後はオランダへ渡ることにした。

アマチュア6部リーグからのスタート

 2012年、片道切符で飛んできたことを入国審査で怪しまれ、危うく強制送還になりかかったのが、オランダでのキャリアのスタートだった。以降、彼はオランダ語の勉強をしながら、飛び込み営業の要領でサッカークラブを歩き回り、自分の居場所を探し続けた。

 初めてクラブが見つかったのは、13−14年シーズンのこと。何度も門前払いを食らいながら、ようやく見つけたオランダアマチュア6部リーグ相当のクラブだった。

「初めてそのクラブに行った時、(ドラえもんに出てくる)ジャイアンみたいな若い選手がいて『俺、中国人、嫌いなんだよなあ』と言われた。彼がいないチームの担当になるようにと思ってましたが、自分が担当したU−19に彼がいて、最悪だと思った(苦笑)。しかし、結局は治療して治れば何も言わなくなる。チームも優勝しましたし、楽しかった。クラブも『来シーズンも残ってくれ』と言ってくれた」

 しかし、中田は「このレベルはもういいな」と移籍を考えていた。せっかく中田が“サッカーに特化したコンディショニング”の概念を持ち込んでも、アマチュア6部レベルだと試合前日の練習に二日酔いで来たり、クラブで飛びすぎて足を痛めたりと、若者たちは中田が施したせっかくの仕事をハチャメチャにしてくれた。そこで新シーズンに向けて再び、サッカー観戦を兼ねながら飛び込み営業を始めた。

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著者プロフィール

1966年生まれ。転勤族だったため、住む先々の土地でサッカーを楽しむことが基本姿勢。86年ワールドカップ(W杯)メキシコ大会を23試合観戦したことでサッカー観を養い、市井(しせい)の立場から“日常の中のサッカー”を語り続けている。W杯やユーロ(欧州選手権)をはじめオランダリーグ、ベルギーリーグ、ドイツ・ブンデスリーガなどを現地取材、リポートしている

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