「感」を大切にするサッカー指導者・池上正氏 スポーツは楽しい気持ちが根底にあってこそ
※リンク先は外部サイトの場合があります
日本人に足りないのは人権の意識
池上 私が一番感じる問題点は、日本人の人権意識の低さです。「人権」を知らなさすぎます。日本は、『子どもの権利条約』に批准していますが、実際には子どもの権利が認められていないケースが多いと感じます。うちの娘が小学5年生のときに、林間学校の行事で肝試しがありました。娘は怖いことが大嫌いなので、私から「怖いなら行かなくてもいいんだよ。子どもにも選ぶ権利があるからね」と伝えたあと、娘が先生に言いに行きました。先生の対応は、「じゃあ、行かなくてもいいから、ひとりで部屋で待っておきなさい」でした。
――むしろ、ひとりで待っているほうが怖いかもしれません。
池上 そうですよね、部屋に残っているのが娘ひとりしかいない。「怖がることが嫌い」と話しているのに、「肝試しに参加しなければいいのでしょう」という発想にしかならないわけです。子ども一人ひとりの人権が無視されていることが、体罰にまでつながっているように思います。
村中 今、池上さんがおっしゃった「人権意識が低い」という考えはまったくの同感です。日本で人権の話をすると、なぜか優しさや思いやりなど、道徳の話になってしまうのですが、それは違います。人権とは権利の話であり、権利とは選択の話です。つまり、「あなたには知る権利や、行動を選択する権利がありますよ」ということです。これは、人から聞いた話ですが、「人権が無視される国家では、国民が天気予報を知ることができない」と知って、なるほど、そういうことなのかと納得しました。天気は移動や行動を決定するうえで、非常に大事な情報です。それを国民に隠すというのは、自由に行動することを制限しようとすることです。天気を知れることも、自由に移動できることも、国民一人ひとりの人権が尊重されているからできることなのです。
――当たり前だと思っていることが、じつは人権問題とつながっているのですね。
村中 池上さんの娘さんの話を例にすると、学校側から彼女にいくつかの選択肢を提示してほしかったですね。あるいは、肝試しに何らかの目的があるのなら、ほかのプログラムを用意することもできたのではないでしょうか。子どもに選ぶ権利がないというのは、誰かが「あなたはこうあるべきだ」と行動のあるべき姿を勝手に決めてしまうことになるのです。生徒だからこうしなさい、子どもだからこうしなさい、選手だからこうしなさいと、〝あるべき姿〞を求めすぎている大人が多いように感じます。
――大人側が〝あるべき姿〞を持っているからこそ、そこから外れたときについつい叱りたくなってしまう。
村中 規範から逸脱すると、どうしても処罰欲求が芽生えてきます。ドーパミンが分泌されて、誰かに苦しみを与えたくなる。これは世界中どこの国でも起こりうることで、「脳のメカニズムがそうなっているから」としか説明ができません。こうなると、あとは叱る度合いの問題で、激しくなりすぎると体罰につながりかねない。〝あるべき姿〞が強い人ほど、相手が持っている権利を制限する発想になりやすいのです。
――「叱るを手放す」と考えたとき、大人が子どもの人権を尊重することが、大きなカギになりそうですね。
村中 そうなります。ただ、私は講演会や著書の中で、「人権」という言葉をほとんど使っていません。なぜかというと、「人権=優しさや思いやり」を連想する人が多く、本当に伝えたいことが伝わりにくいからです。代わりに、「子どもの選択肢を奪わないでください」という言い方をしています。チームの練習に参加するのもしないのも、本来は子どもに選ぶ権利があるのです。日々の練習メニューに関しても、子ども自身が選択して、決定できる余地を残すことが重要になってきます。
池上 非常にわかりやすい話ですね。私が小学生向けにやっているプログラムでは、試合相手も場所も、小学生自身で選べるようにしています。何事も、「自分自身でちゃんと選べる」という環境を作っておくことが、非常に重要であるのは間違いありません。