高校野球と人権

「高校野球はなぜ坊主?」 固定観念と典型的な精神主義がないがしろにしてきた選手の人権

中村計 松坂典洋
 無論、丸刈りが「悪」なわけではない。ところが、丸刈りというルールが存在している理由を問うと、なぜ坊主が悪いのかという、誰も言ってない方向へ議論がズレていくことがたびたびあった。そのズラし方も結局のところは、丸刈りにすることの理にかなった回答を持っていないことの証のように映った。

 結局のところ、ひと昔前ならともかく、現代において丸刈りをルール化することの合理的な理由など存在しないのだ。丸刈りに明確な根拠があるのなら、高校だけでなく大学や社会人やプロにおいても同じ決まりが存在するはずである。世界最高峰の舞台、メジャーリーグにも丸刈りの選手があふれているはずではないか。

 そう思い至ってからというもの、何の疑問も持たずに丸刈りにさせている指導者はもちろん、それに黙って従っている選手の方も奇異に映って仕方なくなってしまった。

 なぜ、令和の世において、こんな不可思議な慣習がまかり通っているのか。

 その根本に横たわっている思想の欠落に気づかされたのは旧ジャニーズ事務所の性加害事件に関する討論会の動画をYouTubeで眺めていたときだった。

 このような事件が日本で長年、放置され続けてきたことの理由として、老齢の女性が確信に満ちた口調で言ったのだ。人権なのよ、と。つまり、日本人の人権意識の低さがこのような事件を引き起こしたのだと喝破したのだ。

 私の中で人権という言葉のイメージが初めて像を結んだ瞬間だった。それだ、と思った。高校球界に「丸刈り」という現象が依然として残っている理由も。

 そのルールによって何か大きなものが損なわれているのかもしれないというところに想像が及ばないのだ。私も「髪型程度のことで」と思っていた。その程度のことで野球部に入りたくないというのなら、入らなければいいのだ、と。

 いや、かつての私は、もっと尊大だった。小学校から中学校に上がるとき、地元の少年野球チームでうまいと評判だった5、6人の選手たちが他の競技に流れた。そのうち何人かは丸刈りが嫌なのだと言った。私は、こう思っていた。そんな軟弱なことを言うやつには野球をやる資格はない、と。時代錯誤も甚だしいが、40年近く前の野球界は、そんな空気感に支配されてもいた。典型的な精神主義である。

 しかし今は、男性として生きることでさえ息苦しさを覚える人たちがいることも広く知られるようになった。そんな世の中を俯瞰すれば、髪質、頭の形、趣向の相違から、丸刈りにしなければならない集団の中では「生きにくい」と感じる人がいるだろうことは想像がつく。

 無知な私に人権の手触りを最初に教えてくれたもの。それは意外なことに高校野球だった。

書籍紹介

【(c)KADOKAWA】

日本人に愛される「高校野球」から日本人が苦手な「人権」を考える

甲子園から「丸刈り」が消える日――
なぜ髪型を統一するのか
なぜ体罰はなくならないのか
なぜ自分の意見を言えないのか
そのキーワードは「人権」だった
人権の世紀と言われる今、どこまでが許され、どこまでが許されないのか
高校野球で多くのヒット作を持つ中村計氏が、元球児の弁護士に聞いた
日本人に愛される「高校野球」から日本人が苦手な「人権」を考える
知的エンターテインメント

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