パリ五輪2種目内定の“葛藤するランナー”田中希実 日本選手権の走りと言葉から見えた「深さ」

大島和人

「怖さ」に駆り立てられた5000m

5000mは独走で制した 【写真:松尾/アフロスポーツ】

 大会3日目に行われた5000mは2位に10秒以上の大差をつける勝利だった。もっとも自身の日本記録(14:29.18)を比較すると、15:23.72のタイムは平凡だった。

 レースを終えた田中の一声目はこうだった。

「記録よりは順位であったり、その中で自分がどういう走りをしたいかを探りながら走りました。レース内容はいまいちだったかなと感じますが、一番の目標である優勝は勝ち取ることができたので、そこは純粋に嬉しく思います」

 1500m決勝の3時間半前には800mの予選があった。また4日目には800mの決勝が待っている。そんな状況下で5000mのレースに臨む難しさがあったことは想像に難くない。

「800mも兼ねている分、そこを意識しすぎました。いつもは5000mが最後で『あとはもうどうなろうが構わない』というレースをすることができるのですが、今日は少し後を意識したレース運びになってしまいました。といっても、いつ誰が上がってくるか分からないような布陣は揃っていました。流して終わるのではなく、ラストスパートで追いつかれるのではないかという恐怖とも戦いながら走ったからこそ、今日は最後まで駆け抜けることができたと思います」

 5000mでの田中は早いタイミングから先頭に立ち、独走でレースを終えた。すでに五輪出場権を得ている種目でも、実力では他を圧倒している状態でも、「怖さ」をエネルギーにしてレースに臨んでいた。程よい臆病さは、アスリートとしての武器になる。

「序盤に余裕がありすぎるとラスト2000m、1000mとなるにつれて、誰が勝ってもおかしくない状況が生まれてしまいます。それは自分の中で怖くて、ちょっと早めに仕掛けて自分ひとりの状況を作りました。そこで行き切るのでなく休んでしまったところは、明日(800m)を意識した部分もあったのですが、そこはずっと葛藤しながら、後ろがいつ上がってくるか分からないと思いながら走りました」

 自分の「必死さ」を反省するところもまた、求道者的な思考の奥行きだ。

「最後までライバルを意識しながら、でも変に必死すぎて自分の走りが後ろ向きになってしまったのではないかなと反省しています」

 勝っても「もっといいレースができたのでは?」という自問自答が止まらない。簡単に是非の結論を出さず考え続ける。全力を出し切れたとしても、まだ満足をしないーー。一般人の基準で考えると明らかに「考えすぎ」だし、前後のコメントが矛盾にするように聞こえることもある。しかし彼女はそんなプロセスを、自らの最大値を伸ばすための手段に転化している。

「自分の走り」で敗れた800m

田中は1500m、5000mの2種目で代表に選ばれている 【写真:松尾/アフロスポーツ】

 大会最終日の800mは田中がタイトルを獲得できなかった唯一のレースとなった。400mすぎから先頭に立って仕掛ける積極的なレース運びを見せたが、高校2年生の新鋭・久保凛に振り切られ、先頭争いから脱落していった。

 2:05.14の7位で、久保から2秒遅れる結果だった。ただ彼女はそれを後ろ向きに受け止めている様子がなかった。

「最後に伸びなかったのは悔しいのですが、自分の中で攻めのレースはできたかなという思いはあります。抜かれながらのゴールになってしまって、イメージはあまり良くなかったのですが、不完全燃焼ではなくて、単にこれが今の力なのだと思います」

 レース内容はこう振り返っていた。

「今まで800mは順位を意識しすぎてしまって、ラストまで貯めたり、ここから仕掛けようと決めたりして臨んでいました。今日は仕掛けどころを作らず、とにかく自分の行きたいところで行くという考えでした。私は常に『行きたい』と思ってしまいがちなので、常に外のレーンを走る形にはなってしまいました。でも良い意味で私らしさといいますか、変に順位を意識して負けたのでなく、自分の走りをして負けることができました」

 過密スケジュールの消化には、五輪のシミュレーションという側面もある。

「パリオリンピックの5000mで決勝に残ったら、1500mの予選はその翌朝です。5000mの翌日に800mというような形はなかなか国内でも取ることができないですし、海外のレースでもここまで高レベルのレースで連日走ることはなかなかありません。そういった予行演習のような大会にもできました」

 800mは本職の1500m、5000mとは位置づけの違う種目だ。一方で田中が欲する挑戦の場だった。

「1500mと5000mは国内では(レースを)コントロールできるようになってきてしまっています。800mのように自分より格上の選手と走る、負けて悔しさを味わうことはできません。今しかできない、かけがえのない大会になったかなと思います」

 田中のコメントは「予定調和」では終わることがない。自分に問いを投げかけつつ、同時に取材者の考えも深めてくれる。時に難解で、関係性の乏しい他者には受け止めきれない内容もある。しかし彼女は全く飾らず、その等身大に伝えようとする誠実さがある。

 明も暗も、成も否も、様々な思いがぶつかっている状態は、田中の足を止めない。葛藤こそがアスリートを駆り立てるエネルギーであり、「平常心」なのかもしれない。トップランナーの「違い」「凄さ」を感じた、日本選手権だった。

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著者プロフィール

1976年に神奈川県で出生し、育ちは埼玉。現在は東京都北区に在住する。早稲田大在学中にテレビ局のリサーチャーとしてスポーツ報道の現場に足を踏み入れ、世界中のスポーツと接する機会を得た。卒業後は損害保険会社、調査会社などの勤務を経て、2010年からライター活動を開始。取材対象はバスケットボールやサッカー、野球、ラグビー、ハンドボールと幅広い。2021年1月『B.LEAGUE誕生 日本スポーツビジネス秘史』を上梓。

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