「ここがゴールじゃなくて、ここからが始まり」 東京ドームから次代につなぐ――大橋秀行会長の思い
「大橋ジムの宝ではなく、日本の宝」
次代を担う田中空、田中将吾、大橋蓮、坂井優太(2024年4月2日) 【写真:船橋真二郎】
強豪・東洋大で主将を務めた田中将吾は、攻防バランスに優れた右ボクサーファイター型で、よりアグレッシブなタイプ。世界選手権(2度)、アジア選手権に出場、世界大学選手権優勝など、国際経験も豊富で、高校4冠に加え、昨年の全日本選手権をバンタム級で制した。
田中将吾と東洋大同期の田中空は、“ハマのタイソン”の異名通りの右ファイターで、身長165cmと小柄なウェルター級。15歳以下の全国大会で活躍し、高校で全国2冠、アジアユース選手権3位、アジアジュニア選手権優勝、大学では全日本選手権、国体優勝の実績を残した。
東京農大を中退してプロに転じた大橋蓮は、左ストレートに一発の威力を備えるサウスポー。大学2年の全日本選手権ライト級の準決勝、決勝とも、その左で倒し、アマチュアでは珍しいKO勝ちを連発した。同年の国体と合わせて2冠を達成している。
4人は6月25日、後楽園ホールで開催される「Lemino BOXING フェニックスバトル117」で、そろって6回戦デビューする。松本圭佑がメインを務めるリングで、どんなスタートを切るのか。
「大橋ジムの宝ではなく、日本の宝」。2012年10月2日、当時19歳の井上尚弥が後楽園ホールでプロデビューした直後の会見で、大橋会長が力を込めていたことが思い出される。
今年は1994年2月22日にオープンした大橋ジムの30周年にあたる。大橋会長の言葉が井上をメインに据えた東京ドームのビッグイベントという形で結実した節目の年は、同時に次代へと新たなスタートを切る年になるのかもしれない。
川嶋勝重の背中
大橋ジム第1号の世界王者となった川嶋勝重(左)。ジムに与えた影響は大きかった 【写真:ロイター/アフロ】
今でこそ“常勝軍団”というイメージが強い大橋ジムだが、最初は4回戦に送り出した選手がことごとく敗れ、5連敗からのスタートだった。「チャンピオン育成は、経営が成り立ってから」。会員集め、スポンサー集めとジムの基盤づくりに軸足を置いていた頃だった。
「先輩、こんなんでいいんですか……?」。当時はまだ現役の松本トレーナーは初期の大橋ジムを訪ねたとき、「ゆるさ」に驚いたという。ジム経営を安定させるには、フィットネス会員が中心になる。その雰囲気はチャンピオン・メーカーだった名門ヨネクラジムとは比べるべくもなかっただろう。信念に基づく助走期間のことだったが「松本にそう言われちゃって、傷ついたんだよね」と大橋会長は苦笑まじりに振り返っていた(2度の移転を経た現在の大橋ジムでは、プロと一般のフロアが分かれている)。
チャンピオン育成に本腰を入れ始めたのは、ジム開設から5年になる頃だった。1999年1月、前年9月に3度目の世界挑戦に敗れ、引退を決意した松本トレーナーをジムに迎えた。
「自分の片腕的な存在になるトレーナーが絶対に必要だと思ったし、松本が来れば、必ず行けると思っていたから」(大橋会長)
松本トレーナーはヨネクラジム時代、先輩の大橋秀行、同い年の川島郭志が世界王者となっていく過程を間近でつぶさに見てきた人だった。また横浜高、専修大中退からヨネクラジムまで、ボクサーとして歩んできた土壌が大橋会長と同じで、「あうんの呼吸」(松本トレーナー)と通じ合うものがあった。
「まずは軸になる選手を育てること」。師匠・米倉健司会長の助言を受け、当時日本ランカーで、ジム頭だった川嶋勝重に力を注いで第1号の世界王者に導くのは、さらに5年が経った2004年6月だった。
「21歳で会社を辞めて、“素人”からジムに入ってきた」(大橋会長)のが川嶋で、「何か素質的に引っかかるものがあったわけではなかった」(松本トレーナー)。だが、補って余りあるような意志の強さがあった。
大橋会長が話してくれたのは、アマチュア出身の八重樫東、細野悟、岡田誠一が大橋ジム入りし、川嶋の伊豆での走り込みに同行したときのこと。最初は若い力が走り勝つものの、約1週間の合宿も後半に折り返し、疲労が溜まってくるとベテランが培ってきた耐久力、精神力の前に歯が立たなくなり、川嶋の背中を追いかけることになるのだという。
「チャンピオンは生まれてくるものだと思っていたが、つくられるもの。そう川嶋に教えられた」
大橋会長が感慨を込めて川嶋を称えたのは、アレクサンドル・ムニョス(ベネズエラ)に王座返り咲きを阻まれた2008年1月、ラストファイトの舞台となった、今はなき横浜文化体育館の控え室だった。この14年で大橋ジムの礎は築かれた。