西浦颯大『もう一回野球させてください神様』

西浦颯大が「お前、おもんないな」と言われた中学時代 “怖いオヤジ”と“いつも味方のおかん”に支えられて

西浦颯大

いつも味方だったおかん

 オヤジにはいつも怒られて、どつかれていましたけど、おかんはいつも、どんな時も、僕の味方でいてくれました。オヤジに怒られている時も、間に入って守ってくれました。
 でもおかんにはめちゃくちゃ迷惑をかけました。
 さかのぼれば、産まれた瞬間から、心配をかけてしまいました。もちろん僕は覚えていないんですけど(苦笑)。

 僕はおかんのお腹の中でのんびりしすぎて、出産予定日を1週間過ぎても産まれてくる気配がなかったそうです。なので、陣痛を促す点滴を打って、吸引分娩で出産。僕は3980グラムと立派に育っていました。ところが、産まれてきた僕は息をしておらず、仮死状態だったんです。そこからお医者さんが懸命に蘇生をしてくれて、なんとか息をし始めました。母子手帳には「仮死蘇生」と記録されています。

 赤ん坊の頃は、夜泣きがひどかったそうです。僕がなかなか泣きやまなくて困り果てた時、両親はドライブに出かけました。オヤジが運転して、おかんが僕を抱っこして。僕は車に乗るのが好きで、抱っこして車に乗せると、泣きやんで眠ったそうです。

 歩き始めると、今度は手がつけられないほど落ち着きのない子供で、しょっちゅう迷子になっていました。1人になるのが耐えられなかったみたいで、少しでもおかんの姿が見えなくなると、おかんを探して勝手にチョロチョロと動きまわり、それではぐれてしまった。ショッピングセンターに行くと毎回のようにはぐれて迷子になり、サービスカウンターで保護されました。

 常習的に迷子になるうちに、どうすればおかんと会えるのかを学習したんでしょうね。おかんの姿が見えなくなったら、僕はさっさと自分でサービスカウンターに行くようになりました。それで、まるでおかんが迷子になったかのように、呼び出してもらうんです。
「ニシウラハヤトくんのお母様、ハヤトくんが待っています。サービスカウンターまでお越しください」
 おかんは慌てて迎えにきてくれました。もうこうなるとプロの迷子ですね(笑)。

 小・中学生の頃は、僕が誰かとケンカをしたり、なにかやらかすたびに、おかんが頭を下げに行ってくれました。
 中学の時は特に迷惑をかけました。僕は中2の途中から、学校に行かなくなってしまったので。

 きっかけは些細なことでした。
 中学校は茶髪禁止だったんですけど、一度、わかるかわからないかぐらいの茶髪にして学校に行ったことがあって。それが体育の先生にバレて、生徒指導室に呼ばれました。
 その時に、「お前みたいなやつは学校に来る資格はない。もう来んな」と言われて、「わかった。お前が来んなって言ったからな」と売り言葉に買い言葉で。それから学校に行かなくなりました。

 今だったら、謝って、学校に行ったと思うんですけど、当時はそれができなかった。もともと、朝早く起きるのが苦手だったし、学校では先生に怒られるだけなので、行きたくなかったというのもあって。

 それからは昼間は家で寝ていて、学校が終わる時間になったら友達と遊びに行く、という生活でした。時々給食だけ食べに行っていましたね。給食費がもったいないので。それで、午後からは保健室で時間をつぶして。

 オヤジは、野球のことや私生活のことについてはめちゃくちゃ口うるさく言ってきましたが、学校に行かないことに関してはあまり言いませんでした。「その代わりちゃんと野球しろよ」という感じで。

 でもおかんには、「学校にはちゃんと行きなさい」と、このことに関してだけは口うるさく言われました。
 学校からおかんの職場に「西浦くんが来ていません」と電話がかかってくるたびに、「すみません、たぶん寝ていると思うので、電話をかけてみます」といつも謝っていたそうです。

いつもおかんが探しに来てくれた

 あとは、ケンカをしたり、タバコを吸っているのがバレたり、そのたびに呼び出され、あちこちに頭を下げてくれていました。

 オヤジが嫌で家出をしたことも何度もありましたが、いつもおかんが探しに来てくれました。

 家出をして、友達とカラオケに行った帰りに、友達と2人で補導されたこともありました。僕は絶対オヤジに殴られると思ったので、家に帰らずに、八代市営球場の多目的トイレに1日くらい隠れていました。オヤジからは「しばかんから帰ってこい」、おかんからも「お父さんも怒らないって言ってるから帰っておいで」と携帯電話にメールが来たので、帰ったら、しばかれました(苦笑)。

 ザ・中2病って感じですね。今考えると恥ずかしいです。学校も、行っておけばよかったなと思います。行かなかったから、同じ中学出身で今も連絡を取り合っているような友達はいません。同じ中学校の子たちには、僕はかなりヤバイやつだと思われていたと思います。

 そんなふうに、おかんには数え切れないほど、めちゃくちゃ迷惑をかけました。今でも申し訳なかったと思っています。

「もう野球をやめる」と言って、説得されたこともありましたね。

 野球は好きでしたけど、とにかく野球のことでオヤジに怒られまくっていたので、「なんで野球やっててこんなに怒られなあかんねん」という思いがあって。

 そんな時は、おかんが僕を車で連れ出してくれました。

「野球が嫌いなわけじゃないんでしょ? 野球を頑張るって言うから、勉強に関しては口うるさく言ってこなかったんだよ。他の子たちが受験勉強を頑張っているのと同じように、颯大が頑張るのは野球なんだから、もう一度頑張ってごらんよ」

 そんな話をしてもらいながら、天草あたりまでドライブしたこともありましたね。

 おかんは管理栄養士の資格を持っていて、病院に勤務して献立を考えたりしていました。
 おかんのご飯はめちゃくちゃおいしくて、子供の頃から大好きでした。一番好きなメニューは照り焼きチキン。実家に帰った時には必ず「作って」と頼みます。
 高校からはずっと離れて暮らしていますが、おかんとはよくLINEで連絡を取り合っています。時々、オヤジのグチを言い合ったりして(笑)。

書籍紹介

【写真提供:KADOKAWA】

小学6年生でソフトバンクジュニアに選出されるなどセンス抜群の野球少年だった西浦颯大。
中学、高校と輝かしい経歴を歩み、オリックスではあのイチロー以来、10代でホームランを記録するなど華々しい野球人生を歩んでいた。

そんな“野球に愛された男”に突然の病魔が襲い掛かる……
国の指定難病「特発性大腿骨頭壊死症」を患い、医師から告げられたのは「復帰は8割強、無理」という非情通告……
懸命にリハビリに励むも、復帰は叶わず、22歳の若さで球界を去ることに……

引退を決めた後輩に、山本由伸、宗佑磨がヒーローインタビューで投げ掛けた言葉とは? 
中嶋聡監督が取った意外な行動とは? そして西浦が引退試合で許された「たった1球の物語」とは――?

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