京大野球部に“高卒・元プロ”の新監督が誕生 「野球オタク」もついに投手コーチへ就任
21年秋、京大野球部に異色の監督と投手コーチが誕生した 【写真は共同】
甲子園スターも野球推薦もゼロの難関大野球部が贈る青春奮闘記。菊地高弘著『野球ヲタ、投手コーチになる。 元プロ監督と元生物部学生コーチの京大野球部革命』から、一部抜粋して公開します。
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新監督・近田怜王の決断
リーグ戦の試合会場へと向かう車中で青木から問われた近田は、「機会があれば、ゆくゆくはしたいと思っています」と答えた。
2020年の夏までボランティアで指導していた近田だったが、その力量と功績が認められて同年9月からJRの出向扱いで京大の助監督に就任していた。つまり、京大野球部の指導が近田の本職になったのだ。指導者としてのやりがいを感じていた近田は、いずれ監督としてオファーがもらえたら勝負してみたいという心境になっていた。
ただし、京大での監督就任は想定していなかった。自分は高卒の外様であり、何よりも青木が精力的に指揮をとっていたからだ。青木は塾経営を引退し、監督業に専念していた。「死ぬ時はグラウンドで死にたい」と冗談めかして語ったこともある。
その会話を交わした翌日、再び車に同乗した近田は、青木からこう告げられた。
「近田さんがやる気であれば、思いきって替わりましょうか」
実は青木のなかでは「長くてもあと1年でやめよう」と決め、妻にも伝えていたのだった。翌2022年のチームは能力の高い投手が多く、「打線次第ではいける」と青木はにらんでいた。いわば集大成のチームだったが、青木にはこんな思いもあった。
「2年前の秋に4位になって以来、コロナで思うように練習ができないシーズンが続いている。でも、このタイミングでトップが替わることで、また違った目が出るかもしれない」
11月18日、青木の意を汲んで、近田は監督に就任する。31歳の青年監督の誕生だった。監督を退いた青木は総監督に就いている。
西日本最難関と言われる大学の監督が高卒、という奇妙な状況に近田は戸惑った。
「高卒でプロに進んだ選択に後悔はないんですけど、学歴コンプレックスは僕のなかにあると思います。京大生の語彙力はすごいなと感じますし、彼らを教えていると『もう少し自分に学力があればな』と思うこともありますから」
新監督になった近田は、選手たちにこう宣言している。
「野球をやっている以上、優勝を目指していこう。オレはてっぺんを獲らない限り、価値を見出せないと思ってる。京大野球部の歴史を変えて、ともに喜びを味わおう」
コーチ就任当時、近田は京大生の根強い「私学コンプレックス」を感じていた。
「私学と自分たちは別世界」「やっぱり関大は違うよな」
そんな弱音が口に出てしまう。思考力が高いがゆえに、厳しい現実に直面すると早々にあきらめてしまう。だが、近田はコーチ時代から「優勝するぞ」「勝つぞ」と選手たちに繰り返し伝え続けた。2019年の秋季リーグでは4位を経験し、選手たちのなかに「自分たちもいける」という思いが芽生え始めていた。
そして本気で優勝を狙いにいくにあたって近田は、まず三原にこう告げた。
「ピッチャーのことは、任せるわ」
三原は一瞬、何を言われているのかわからなかった。近田は野球経験のない三原に、投手コーチをやるように要請したのだ。
近田からすれば、何も突飛な発想というわけではなかった。三原が2回生になって以降の2年間は、基本的に近田と三原の二人三脚で投手を見てきた。監督になれば、今度は近田が野手の指導や評価もしなければならない。近田は「野手がおろそかにならないよう、自分は野手中心に指導しよう」と考えた。
そして、近田にはもう一つ狙いがあった。それは三原の進路に関することだ。
「三原は将来、プロ球団のアナライザー部門に就く希望を持っていました。野球未経験のスタッフが助言することに、抵抗があるプロもいるという話を聞いていました。たとえプレーはできなくても責任を持って選手に話す経験を積めば、三原がプロ球団に行けた時に苦労が減るんじゃないかと考えたんです」
近田自身、プロで華々しい実績を挙げられなかったとはいえ、現役生活の大半を投手として過ごしている。通常の感覚なら、「投手は自分が指導したい」と考えるものではないか。そう問うと、近田は苦笑しながらこう答えた。
「たしかに、助監督時代から引き続きピッチャーを指導したほうがラクというか、責任を持ってやれると思います。でも、せっかく三原という人材がいるなら、彼にピッチャーを任せて自分は野手にフォーカスしてみようと思ったんです」
プレー経験のない、いわゆる“野球ヲタク”が投手コーチになってしまった。