“圧倒的弱小”京大野球部の強化へ向けた土台作り 部員増加とアナリスト志望の新入生
研究気質の京大生たち。近田監督(写真中央)の目には「考えすぎ」と映った 【写真:菊地高弘】
甲子園スターも野球推薦もゼロの難関大野球部が贈る青春奮闘記。菊地高弘著『野球ヲタ、投手コーチになる。 元プロ監督と元生物部学生コーチの京大野球部革命』から、一部抜粋して公開します。
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70季中67季で最下位に沈んだ圧倒的弱小
監督の青木はそう言って、近田のやりたいように任せてくれた。
最初は週1回指導する予定だったのが、いつしか1日、2日と増えていった。近田は京大野球部での指導にやりがいを覚え始めていた。
「学生が絶えず僕に『宿題』を与えてくるんです。学生から聞かれてわからないことに対して、『次までにどうすればいいか考えとくわ』と言うと、『お願いします』と返ってくる。頼られるとこちらもうれしいですから、プロ時代のトレーニングコーチに相談したりして、なんとか応こたえてやりたいと思っていました。彼らが僕を導いてくれたようなものですよ」
指導するうちに、京大生の気質が見えてきた。近田の目に京大生は「考えすぎ」と映った。
「野球では『1球1球予測して、考えなさい』とよく言いますが、京大の選手は打席で考えすぎて、体が固まって動かないということがよくありました」
あらゆることに対応しようと考えるから、かえって体が反応できない。近田はそんな選手に「割り切りなさい」とアドバイスを送っている。アウトコースを狙う打席では、インコースの見逃し三振でもオーケー。守備中にケアしていない方向に打球が飛んできたら、捕れなくてもオーケー。そうして、「逃げ道」をつくってやることに腐心した。
京大生は技術的なこだわりも強かった。とくにフォームの「形」を追究する選手が多く、近田は「フォームも大事だけど、崩されてからどう打つかが大事じゃない?」と説いた。
京大野球部は関西学生野球連盟に所属する。同連盟に所属するのは、ほかに近畿大、立命館大、同志社大、関西大、関西学院大の5校。リーグ優勝経験のある5校と対照的に京大は優勝経験がないどころか、過去最高順位は5位。近田が就任した時点で、70季中67季でリーグ6位となっており、もはや最下位が定位置というありさまだった。
旧関西六大学時代の1934年秋、1939年秋に「京都帝国大」としてリーグ優勝した実績はあるものの、1982年に関西学生野球連盟が発足してからは惨敗の歴史が続いていた。
だが、それも仕方ないと思えるような事情がある。その時点でリーグ最多となる35回の優勝を飾った近大には、1学年あたり20人のスポーツ推薦枠が設けられている。ほかの大学も程度の差はあれど、今は野球部の推薦入学枠がある。
京大にはスポーツ推薦がないどころか、入試を突破すること自体が極めて高いハードルとしてそびえ立っている。野球部の門を叩くのは、高校野球での実績がほとんどない進学校の選手に限られる。
部員数は1学年あたり20名前後で、その半分以上が浪人経験者である。平日は13時から18時までの時間帯に、履修授業がない部員が集まって練習する。野球部の寮はなく、ルームシェアして暮らす部員もいる。大学生活の傍ら、アルバイトに精を出す部員も多い。
予算もなければ、環境もない。吉田南構内にある野球場にしても両翼90メートル程度の広さしかなく、しかもほぼ正方形の形状である。室内練習施設はなく、雨が降ればその日の練習が中止になってしまう。自身も京大野球部OBである青木は、頭を悩ませていた。
「私が指導するようになった頃(2013年)は、とにかく打てなかったんです。チーム打率が1割台前半だった時もあります。近大なんかウチとの試合では外野の守備位置がすごく浅くて、ヒットが4本出ないと点が取れないんです。チーム打率が2割だとしたら、点を取れるとしても0.2の4乗で天文学的な確率になってしまいます」
2015年に監督に就任した青木が改革したのは、打撃面だった。青木は選手たちに「低めの見逃し三振はオーケー」と伝える。その理由は「低めのボールは当たっても、ヒットにならないから」と単純明快だった。
「公立高校のようにボールをじっくり見ていたら、関西学生リーグの投手はコントロールがいいので、あっという間に2ストライクに追い込まれてしまいます。2ストライク後の打率は1割にも満たないわけです。いかに追い込まれる前に、高めの甘いボールを打てるかが大事です」
高校野球は3年間だが、大学野球は4年間とスパンが長いことも強豪チームに対抗するための重要な要素になっている。青木は選手たちにこう語りかけた。
「大学に入った時に大きな差があっても、それを4年間でどこまで縮められるかだよ」
青木孝守の京大合格必勝法
「でも、京大さんは入試が難しいでしょう?」
そんな及び腰の反応をされるたびに、青木はこう豪語した。
「東大ほど難しくありませんよ。京大には受け方、攻め方があるんです」
東大が共通テストの全科目を評価するのに対し、京大は学部によって科目の配点がバラバラ。つまり、京大の入試は東大ほどオールマイティーではなく、得意分野を生かせる仕組みになっているのだ。青木は受験生の高校での成績を見て、「この科目が苦手なら、京大のこの学部が入りやすいですよ」とアドバイスを送った。難関であることに違いはないが、青木は「受けてもらえないと始まらない」と受験生を全力でサポートした。
「大学で『甲子園に行ってるヤツを打ち負かそう』と本気で思っているヤツが1学年あたり15人ほしかったんです。人数が少なければ、競争も始まらない。『大学野球って浪人するとできないんじゃないですか?』という誤解もありましたが、『京大では浪人しても1年間じっくり鍛えて、2~4回生で勝負できます』と伝えてきました」
そんな青木の献身もあって、1学年あたり10人にも満たなかった部員数は徐々に増えていき、やがて1学年あたり20人前後も集まるようになっていた。
2014年には「京大史上ナンバーワン投手」と言われた田中英祐がロッテからドラフト2位指名を受け、プロ入りを果たした。田中は在学中に通算8勝31敗と大きく負け越したものの、防御率は2.25と高水準だった。京大の投手として初めて5大学から勝ち星を挙げ、ベストナインも2回受賞している。田中はプロでは投球感覚を崩して大成できなかったものの、京大からプロ野球選手が誕生したのは初めてのことだった。それは「プロや社会人野球を目指すような選手が出てこないと勝てない」という信念を持つ、青木の願いが一つ叶った出来事でもあった。
その一方で、青木は限界を感じ始めてもいた。
「私自身もずっとグラウンドにいられるわけではありませんし、京大野球部は社会人やプロを経験したOBが圧倒的に少ない。その血を入れないと、強くならないと考えていました」
そうした状況でコーチに就任したのが、近田だったのだ。青木は36歳も年齢の離れた近田に対して、常に丁寧な口調で接する。青木に言わせれば、「社会人として当然」だという。
「年齢差はあっても、人間に上下関係はありません。たしかに近田さんは僕の息子より年齢は下ですけど、苦労もされているし敬意を持って接しています。野球界以外の世界では、それが当たり前ではないでしょうか」
青木という理解者の後押しを受け、近田は指導者として着々と経験を積んでいった。