「彼がいなかったら絶対に甲子園で優勝していない」 仙台育英の扇の要・尾形樹人が強力投手陣の能力を引き出すまで
「守備の指標を出したら相当、高い」指揮官が信頼するワケ
須江監督が絶大な信頼を寄せる正捕手・尾形。愛用のミットには「丁寧」と刺繍している 【高橋昌江】
仙台育英(宮城)の須江航監督がそう口にしたのは昨年12月のことだった。話題はチームの守備で、捕手の尾形樹人(3年)について話していた時だった。1年秋から正捕手となり、2年夏には甲子園優勝を経験。同秋には東北大会を制してセンバツ出場が“当確”となっていた。髙橋煌稀(3年)、湯田統真(3年)、田中優飛(3年)、仁田陽翔(3年)と、質の高い速球と変化球を持ち、それぞれが異なる特徴も発揮している投手陣をリードし、試合を作っている。ハイレベルな投手力が脚光を浴びるが、当然、投手の技量だけでは戦えない。
これだけのピッチャー陣をリードするというのは、高校生でなかなか経験できることではないですね――と言うと、指揮官の扇の要に対する信頼が垣間見えた。
公式戦では髙橋、湯田、田中、仁田が主となるが、チームでは140キロを超えるストレートを持つ投手が10人以上いるなど、高いポテンシャルと個性を持っている選手が多い。彼らは日頃の練習や紅白戦などで切磋琢磨し、誰一人としてベンチ入りを諦めることなく、腕を磨いている。技量はもちろんのこと、そのレベルも高校球界で群を抜いているだろう。
昨秋の宮城県大会におけるチーム防御率は1.32。同東北大会は1.00でセンバツへの道を開いた。今春の県大会では4試合のうち、準決勝は2年生バッテリーだったが、3年生で臨んだ3試合においては防御率0.72だった(なお、準決勝は東陵に9-2の7回コールド勝ち)。
そんな投手陣をリードし、仙台育英のホームを守っている尾形は、どんな軌跡をたどってきたのか。
自滅する“三振をとる配球”との戦い
尾形は背番号2を背負った1年秋をこう表現する。優勝した県大会では4試合で1失点だったが、センバツへの“関門”となる東北大会では2試合で12失点。盛岡大付(岩手)に7-4で初戦(2回戦)突破したが、続く準々決勝では花巻東(岩手)に11安打を浴びて2-8で敗れた。
「1年生の秋はずっと怒られていた記憶しかなくて。攻撃中は須江先生の隣で守備の話を聞いて、ずっとメモを取っていました」(尾形)
この頃の尾形の配球は「打者から三振を奪うこと」が狙いだった。だが、思うようにことは進まない。例えば、1学年上の左腕・斎藤蓉(立大1年)と組んだ時のこと。
「自分たちは三振を取りたい。けど、須江先生は野手で(アウトを)取ってもらいたいみたいな感じで、すごくズレていました。蓉さんの持ち味は低めのワンバンする変化球だったので、それを多く使わないと三振は取れない。なので、その変化球を使うんですけど、誰も振らない。ボール、ボールとなっていくじゃないですか。それで結局、ストレートしかない。そのストライクを入れにいったストレートを打たれる。須江先生からは『毎回、それじゃないか』、『自滅じゃん』という話をされていたんですけど。自分でもわかってはいるんだけど…、みたいな感じで。でも、三振を取りに行きたくなっちゃうっていう…」
三振を取りたかった理由がいくつかある。中学まで、尾形は投手も兼任しており、「ピッチャーみたいな性格もあって」というのが1つ。また、小、中学校と髙橋とバッテリーを組んできたが、中学ではほぼ打たれることがなく、奪三振が多かったため、「煌稀がいたから身についちゃったかな」というのもある。捕手として、また投手として三振を奪う快感があった。そして、高校に入学後、当時のエース・伊藤樹(早大2年)や吉野蓮(立大2年)ら好投手と組んだ体験も大きかった。
「樹さんとか吉野さんは理解して投げていたと思うので、しっかりとゾーンで勝負ができました。その“いいピッチャー”の時のリードをずっとしていたという感じですね」
そういった経験から「三振」がクセになるのも分からなくはない。
2年春の関西遠征では智弁和歌山に「ホームランを5本くらい打たれて」惨敗した。「ピッチャー陣とはすごく話し合って、自分の考えもほぼ変わりました」と言うが、まだ心の底にはうずくものあったようで…。「うーん、そこでも完全には吹っ切れてはいなくて、まだ三振を取りたいという気持ちがあったっすね」。斎藤以外の投手とは打たせて取ることができるようになってきていたが、こと斎藤とのバッテリーでは「蓉さんになると、なんだか自分も蓉さんも最高(三振)を求めちゃう」と脱却しきれなかった。最終的には6月の大阪桐蔭との練習試合で「また自滅して」、やっとのことで切り替えられたのだが、もしも、ここでも改善がなければ、夏の全国制覇はなかったかもしれない。
徐々に考えを変え、甲子園で勝てたことが自信に
「最初は『そうなんだ』という感じが多かったんですけど、だんだんと自分も『そうですよね』という感じになってきました。自分の思考が整理され、シンプルになり、須江先生との信頼関係もできてきたかなと思います。少しずつ考え方がキャッチャー寄りになり、宮城大会の途中くらいまでは須江先生にサインを出してもらっていたんですけど、甲子園からは自分が出すようになって、そこで勝てたので、めちゃくちゃ自信になりました」
尾形にとってはこの時間が大きかったようだが、須江監督は「リードも教えましたけど、ほとんどは自分で学んだんじゃないかな」という。
「こっちもサインを出しましたが、ここはキャッチャーに空気を感じてほしいというところは本人に頑張らせました。そこに座っている人にしかわからないことがありますから。僕が出すのはアドバイスです。2年生の春くらいから急成長があったので。間違いなく、去年の優勝は尾形の力によるものが大きい。うちはピッチャーがコロコロ代わりますからね。それでピッチャーの長所を引き出すって簡単なことじゃないですよ。変化球の質も違うから、ブロッキングも難しい。それでも、大きなミスをしていないですからね」
夏は宮城大会、甲子園ともに捕逸はゼロだった。須江監督が尾形を1年秋から起用した理由がここにある。
「配球やリードの理解度は低かったですが、プレーにストレスを感じなかったんです。ピッチャーがキャッチャーをやっているみたいで、スローイングがきれいだったんですよ。キャッチングが下手とか、ブロッキングができないとか、そういうのも一切なかったんです」
これには“予習”があった。中学3年の時に所属したクラブチームから仙台育英に進んでいた先輩がおり、仙台育英の捕手に必要なこととして「とにかく、ストップしろ」という助言があった。練習日の午前中はひたすら、ピッチングマシンから出てくるボールを止めるなど、時間を費やした。それでも、「気合いで止めている感じ」だったが、入学後は当時の正捕手だった木村航大(現日体大2年)からバウンドする位置によって落とすタイミングが変わることなど、コツを伝授してもらった。それにより、ブロッキングの理論もできた。
スローイングにも転機がある。中学生の時、ショートも守っていた尾形は源田壮亮(西武)の投げ方がかっこいいと思った。特にトップからリリースまでのしなりに見惚れ、真似をするようになった。
「そしたら急に、肩がさらに強くなったというか。スローイングの全てが変わりました。あれがなければ、今はないっすね」
そんな尾形にも苦手なものがあった。捕球してからの握り替えである。