内海哲也がプロの注目を集めた高校時代 悪夢の選抜辞退を経た福井決勝は…
4試合中、3試合が延長へ
当時の僕は本当に波に乗っていて、相手打者が真っすぐに押され、カーブに全然合わないということが続いていたので、「普通に投げれば勝てるだろう」という感覚がありました。今になって振り返れば、調子に乗っていたのだと思います。
蓋を開けてみれば、夏の大会は4試合のうち3試合が延長戦に突入しました。とにかくみんな、緊張でガチガチでした。
じつは大会前、学校の事務の方からこんなことを言われていました。
「当たり前に優勝してくれよ。甲子園のチケットを何枚くらい頼もうか、すでに考えているから」
ウソやろ……。
思わず耳を疑うような言葉でした。
センバツがまさかの形で出場辞退になり、夏に向けて心機一転頑張っている高校生に対し、普通の大人はそんなことを口にしないと思います。でも、それくらい力があると周囲に考えられていたのも事実です。
初戦の対戦相手は福井(現福井工大福井)でした。相手チームを率いるのは、僕を敦賀気比に入れてくれた渡辺監督です。1998年限りで退任し、新天地で指揮を執っていました。
敦賀気比を知り尽くした渡辺監督が初戦で目の前に立ちはだかり、非常に大きなプレッシャーがのしかかりました。試合は1点リードされたまま終盤に差し掛かり、「初戦で負けるのか……」と覚悟を固めたら、のちにジャイアンツでチームメイトになる4番の李景一がホームランを放って延長戦に突入します。土壇場で追いつき、なんとか勝利することができました。
以降も接戦が続き、若狭との準決勝は延長13回の激闘の末に勝ちました。そして、いよいよ福井商業との決勝戦です。それまでほとんどひとりで投げ抜いてきた僕は、最後の力を振り絞ってマウンドに上がりました。
2回表に1点を先制されましたが、3回に敦賀気比が2点を奪って逆転に成功、5回に追いつかれるという白熱した展開になりました。そのまま決着がつかず、決勝も延長へ。10回表、二死2塁から僕が投じた真っすぐを打ち返されて、右中間へのタイムリー三塁打。その裏を相手エースの山岸穣に抑えられて、敗れました。僕は決勝で178球を投げたものの、チームを甲子園に導くことはできませんでした。
2年4カ月の高校野球が終わった瞬間は、晴れやかな気持ちでした。最後まで全力でやり切ることができたからです。
でも、野球部の練習に出なくなった翌日、悔しさが沸々と込み上げてきました。いつもすごしてきた時間が突然なくなったことで、敗戦の事実が突きつけられたわけです。それから10年くらい、決勝で打たれた場面が夢に出てきました(苦笑)。
ちなみに決勝を戦った福井商業の山岸は青山学院大学を経て、2004年ドラフト4巡目でライオンズに入団します。現在はファームサブマネジャー兼用具担当を務めているので、昔話に花を咲かせることもあります。高校時代のライバルと同じプロ野球チームの職場で関われるのも、お互い野球を頑張ってきたからこそです。
書籍紹介
【写真提供:KADOKAWA】
「自称・普通の投手」を支え続けたのは「球は遅いけど本格派」だという矜持だった。
2003年の入団後、圧倒的努力で巨人のエースに上り詰め、
金田正一、鈴木啓示、山本昌……レジェンド左腕に並ぶ連続最多勝の偉業を達成。
6度のリーグ優勝、2度の日本一、09年のWBCでは世界一も経験するなど順調すぎるキャリアを重ねたが、
まさかの人的補償で西武へ移籍。失意の中、ある先輩から掛けられた言葉が内海を奮い立たせていた。
内海は何を想い、マウンドに挑み続けたのか。今初めて明かされる。