監督・野村克也、阪神での挫折と“痛恨”の辞任 それでも受け継がれる「ノムラの教え」の数々
ヤクルトから、阪神へ、そして……
監督としては、自身初となる「日本一」の称号を手にした野村克也は、その後もヤクルトスワローズ監督として一時代を築き、名将としての地位を確立していた。
95年、97年と隔年でリーグ制覇、日本一を達成して神宮球場の夜空に舞った。93年には正力松太郎賞を受賞。89年の野球殿堂入りと合わせて、野球人としては最高の栄誉を手にすることになった。
98年限りでヤクルトの監督を辞すると、翌年からは同一リーグである阪神タイガースの監督に就任した。90年代後期、阪神は暗黒時代の渦中にあった。ヤクルト時代に名将の名をほしいままにした野村の手腕に注目が集まった。
しかし――。
阪神ではまったく結果を残すことができなかった。就任1年目となる99年には55勝80敗0分、勝率はわずか・407、首位の中日ドラゴンズとは、実に26・0ゲーム差も離された完敗となった。
翌2000年、さらに01年も状況は変わらず、屈辱の3年連続最下位となった。01年のオールスター期間中、野村は阪神・久万俊二郎オーナーに、「今シーズンも最下位なら辞めさせてもらいたい」と自ら申し入れている。
しかし、野村の自著『女房はドーベルマン』(双葉社)によると、「久万オーナーの意思は《野村続投》で固まっていたようだ」とある。確かに最下位ではあったけれど、「年々チーム力は向上している」とオーナーは感じていたという。
そして、この席上で「野村続投」が決定した。結果的に3年連続最下位となったが、02年も野村は阪神の指揮を執ることが決まっていたのだ。8月2日に監督契約を更新。球団は、翌シーズン以降も野村体制で臨むと発表した。
しかし、それは現実のものとはならなかった。
シーズンオフを迎えていた12月5日、沙知代夫人は約5億6800万円の所得を隠し、法人税と所得税あわせて2億1300万円を脱税したとして、法人税法違反(脱税)などの疑いで東京地検特捜部に逮捕された。
同日深夜に野村は監督辞任を決意し、翌6日未明に開かれた会見で正式に発表された。深夜に突然開催され、質疑応答もなかったために報道陣からは批判の声が殺到した。
前掲書で野村は、このときの心境を次のように振り返っている。
辞任の記者会見では辞める事実以外に話すことは何もなかった。それが正直な気持ちであった。深夜の、しかも質疑応答さえない会見に対して批判があったことは知っている。しかし、申しわけないがあのとき質問されても語るべきものは何もなかった。何を言っても言いわけにしか聞こえないと思えたのだ。
こうして、野村は再びユニフォームを脱ぐことになった。妻のしたこととはいえ、それは野村にとって大打撃となる痛恨の一大事であった。
そして、沙知代に関する一連の動きは、当然のごとく自らがオーナーを務める港東ムースにも大きな影響を及ぼした。それについては、後に詳述したい。
「ノムさんももう終わりだ……」
野球関係者の誰もがそう思っていた。
野村克也、66歳の年の瀬のことだった――。