連載:「知られざる審判の世界」野球とサッカーを支える“フィールドの番人”

59歳で現役レフェリーの吉田寿光 W杯予選のミスがあったからこそ、笛を吹き続ける

飯尾篤史
アプリ限定
 今から17年前、日本のトップレフェリーだった吉田寿光はW杯予選の大一番でルール適用ミスを犯した。53歳までJリーグでレフェリーを務めた吉田が、59歳となった今もあらゆる世代の試合で笛を吹き続けている理由は何か。後編では国際主審となって得た経験や、現在について話してもらった。

ピッチのミスはピッチで取り返す

劇的な展開で横浜FMが逆転完全優勝を飾った03年のJ1最終節。吉田にとってもお世話になった先輩の副審のラストゲームだった 【J.LEAGUE】

 2000年にようやく国際主審に登録された吉田が最初に経験したW杯予選は、01年2月末にクウェートで行われたアジア1次予選だった。だが、スケジュールに問題があった。教員を務めている高校の卒業式や入学試験と重なってしまったのだ。

「体育の先生なので、卒業式の司会の役割があるし、入試の採点もしないといけない。校長先生に『こういう大会の通知が来ているんですけど、行けますか?』と聞いたら、『卒業式の司会や入試の採点は他の先生でもできますが、クウェートで笛を吹ける審判員はあなたしかいない。だから、行ってらっしゃい』と背中を押してくれたんです」

 周囲の理解は、吉田の努力の賜物でもあった。月曜から土曜まで授業を受け持ち、サッカー部を指導する。土曜のナイトゲームでJリーグの審判を務めると、日曜の午後にはサッカー部の練習試合の指揮を執り、また月曜を迎える――。Jリーグのレフェリーを務めながら、本業を疎かにしなかったからこそ、快く応援してもらえたのだろう。

 しかし、そんな二足の草鞋を履く生活も終わりを迎えることになる。トップレベルの審判員が審判活動に専念できるように、02年からプロフェッショナルレフェリー(当時はスペシャルレフェリー/SR)制度が導入されたのだ。

 02年に岡田正義と上川のふたりがSRになると、03年には吉田もSRになった。

「01年に審判委員長の高田静夫さんから『来年から日本でもプロの審判制度が始まりますが、どうですか?』と言われて、『やれるのでしたら、やりたいです』と即答しました。家に帰って妻にも報告して、『もう少し考えてよ』と言われるかと思ったら、『あなたの好きなことをやればいいんじゃない』と受け入れてくれたんです」

 実は吉田には、W杯に出場したいという夢があった。

※リンク先は外部サイトの場合があります

  • 前へ
  • 1
  • 2
  • 次へ

1/2ページ

著者プロフィール

東京都生まれ。明治大学を卒業後、編集プロダクションを経て、日本スポーツ企画出版社に入社し、「週刊サッカーダイジェスト」編集部に配属。2012年からフリーランスに転身し、国内外のサッカーシーンを取材する。著書に『黄金の1年 一流Jリーガー19人が明かす分岐点』(ソル・メディア)、『残心 Jリーガー中村憲剛の挑戦と挫折の1700日』(講談社)、構成として岡崎慎司『未到 奇跡の一年』(KKベストセラーズ)などがある。

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント