連載:打順別・最強打者は誰だ!?<2番打者編>

井端弘和が説く2番打者論「2番を打つのは楽しくて仕方がなかった」

前田恵
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黄金期の中日ドラゴンズで2番打者として強竜打線の一翼を担った井端。当時、落合監督からの一言で考え方が変わったという 【写真は共同】

 スポーツナビで行った、ファンが選ぶ「最強2番打者ランキング」のOB編1位の結果を告げると、「率直に嬉しい」と笑顔を見せた井端さん。現役時代は中日ドラゴンズ黄金期の2番打者として、また守備の要・遊撃手として活躍。第3回WBC(2013年)でも日本代表の2番を打ち、世界一に貢献した。そんな華やかな野球人生は、「2番打者として生きる道」を見出し、自己犠牲をもいとわず、その道を貫いた結果でもあった。(取材日:6月2日)

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右打ちは高校時代、カットは大学時代から

――井端さんの2番打者歴は、いつからになるのでしょうか。

 亜細亜大に入学してからですね。1、3年で1番、2、4年で2番と交互に打ちました。1、2番コンビを組むのは常に飯塚智広(前NTT東日本監督)で、毎年変化を与える意味で入れ替えたのか、状態の良し悪しで決めていたのか、いずれかの理由だったのではないかと思います。

――大学で2番を打つようになって、打球をカットする技術や右打ちを練習したのですか?

 右打ちは、(堀越)高校に入学したころからです。投手として入って、野手に転向。打撃技術をみっちり教わったこともない中、何かストロングポイントを身につけるとしたら小技かなと思った。その中で「どんな球でも右に打てるようになろう」と、自分でいろいろ考えながら練習しました。カットのほうは大学で、内田(俊雄)監督に練習を課されました。なぜか僕一人だけの特別メニューでしたが、おかげで追い込まれても怖くなくなりました。

――現役時代、2番の役割、心構えをどう考えていましたか?
 
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著者プロフィール

1963年、兵庫県神戸市生まれ。上智大学在学中の85、86年、川崎球場でグラウンドガールを務める。卒業後、ベースボール・マガジン社で野球誌編集記者。91年シーズン限りで退社し、フリーライターに。野球、サッカーなど各種スポーツのほか、旅行、教育、犬関係も執筆。著書に『母たちのプロ野球』(中央公論新社)、『野球酒場』(ベースボール・マガジン社)ほか。編集協力に野村克也著『野村克也からの手紙』(ベースボール・マガジン社)ほか。豪州プロ野球リーグABLの取材歴は20年を超え、昨季よりABL公認でABL Japan公式サイト(http://abl-japan.com)を運営中。

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