連載:憲剛と語る川崎フロンターレ

歴史を知る中村憲剛と武田信平が語る 川崎Fの両輪【憲剛と語る川崎フロンターレ02】

原田大輔

クラブを代表する社長とクラブを象徴する選手として川崎Fを発展させてきた武田信平氏(右)と中村憲剛氏。クラブの歴史を見届けてきた2人の対談が初めて実現した 【スポーツナビ】

『One Four Kengo The Movie〜憲剛とフロンターレ 偶然を必然に変えた、18年の物語〜』の公開を記念して、川崎フロンターレの歴史を知るふたりに話を聞く。

 J2降格が決定した直後の2000年12月に川崎Fの代表取締役社長に就任し、勇退する15年までクラブを文字通り束ねてきた武田信平氏。03年に川崎Fに加入し、昨年までの18年間にわたりチームをけん引してきた中村憲剛氏。

 川崎Fが成長していくど真ん中にいたふたりの会話には、クラブとチームの歩みと重みが詰まっている。

Jリーグ百年構想のサブキャッチにヒントはあった

――今までおふたりで対談する機会はあったのでしょうか?

武田信平(以下:武田) こうしてあらたまって話をするのは初めての機会になります。

中村憲剛(以下:憲剛) クラブを代表する社長と、一選手ですからね。今回は僕自身にとっても貴重な機会になります。

――現在、『One Four Kengo The Movie〜憲剛とフロンターレ 偶然を必然に変えた、18年の物語〜』が公開中です。武田さんは映画を見て、どのような感想を持ちましたか?

武田 映画のタイトル通りですよね。憲剛の18年間の努力と活躍が如実に表現されていて、私自身も感動しました。なかでも引退セレモニーでの龍剛くん(長男)のスピーチは、あらためて見ても感動しました。

憲剛 ありがたいことに、いまだに各方面から褒めていただくんです。あまり言いすぎると、本人が調子に乗るので、このくらいにしておいてください(笑)。でも、彼の言葉にすべてが詰まっていたと思います。本当にうれしかったです。

――憲剛さん自身が主人公ではありますが、どのようにあの映画を受け取られたのでしょうか?

憲剛 自分に起こった出来事ではありますが、同時にみんなの物語でもあると感じています。舞台挨拶の際にも伝えさせていただいたのですが、みなさんと一緒にフロンターレを作ってきた結果、僕自身もこのような歩みができました。劇中でも武田さんがお話ししてくれていますが、フロンターレは周囲に全く認知されていないところから始まり、自分たちから地域に歩み寄っていったところから今があります。その最中にチームに加入した僕は、(中西)哲生さん、オニさん(鬼木達監督)、(寺田)周平さん、(伊藤)宏樹さんをはじめとする諸先輩方がやっていることに、最初はくっついていくだけでした。これも武田さんが劇中でおっしゃっていたことですが、自分も試合に出るようになり、ピッチ内と地域貢献活動という両輪が大切だということを教わりました。

 また、選手だけではなく、ファン・サポーターも含めた関わるすべての人が『何とかフロンターレを強くしたい、大きくしたい』と、当事者意識を持ってくれていたことが今につながっていると、映画を見てあらためて感じました。きっと、誰かがいなかったら、誰かが別の方向を向いていたら、フロンターレはこうなっていなかった。自分の映画なので言いにくいところもあるのですが、ホームタウンとJリーグクラブの理想の在り方を、ひとつ示した作品になっていると思います。

武田 結局のところ、憲剛が言ってくれた両輪をクラブがやるかやらないかですからね。

憲剛 本当にそう思います。だから、僕が何かを言うよりかは、武田さんが語る言葉の方がよっぽど重みがあると思います。僕が加入する前の01年、どん底にあったフロンターレの社長に就任した方で、トップである社長が、選手たちの地域貢献活動はそこそこにして、サッカーをやっていればいい、ピッチの上だけで勝負しろという考え方の人だったら、フロンターレはこうはなっていないわけですから。

――公開中の映画は、憲剛さんが主人公でありつつも、半分は川崎フロンターレというクラブの成長を描いている物語でもありました。憲剛さんが加入する前のフロンターレについて聞かせていただけますでしょうか?

憲剛 あらためて僕も聞きたいですね。

武田 正確に言うと、私が川崎フロンターレに来たのは00年12月20日。初のJ1を戦っていたチームのJ2降格が決まった直後のことでした。具体的な活動は01年からだったのですが、年明けは地域のさまざまな団体・組織の新年会や賀詞交換会が開かれるんです。

憲剛 確かに武田さんは、しょっちゅう賀詞交換会に参加されているイメージでした(笑)。

武田 それだけ、ものすごい数の賀詞交換会があるんだよ。ただ、当時はそこに足を運び、顔を出しても、知り合いもいなければ、フロンターレと名乗ったところで全く認知されていなかった。多少、知ってくれている人がいたとしても、「フロンターレね、弱いよね。強くなったら応援してあげるよ」と言われてしまう。その場で口に出すことはなかったけど、心の中ではいつも「弱いから応援してもらいたいんです」と思っていました。

憲剛 その場を想像しただけでもキツイというか、つらいですね……。

武田 簡単にチームは強くなるわけじゃない。それ以前に、まずはクラブのことを知ってもらわなければいけないと、みんなで話し合った記憶があります。とにかく、今のままではダメなので、何かひとつクラブの核になるものがなければいけないと。そのとき思ったのが、Jリーグが掲げていた百年構想でした。そこにはサブキャッチとして、「スポーツで、もっと、幸せな国へ」と書かれてありました。それを見て、スポーツは娯楽や興行というだけでなく、心の幸せを作ることができる原動力になるのではないかと考えました。それでフロンターレは地域に根ざしたスポーツクラブを目指すことにしたんです。

 また、そうした姿勢を地域に示すには、親会社である富士通の色をなくすことから始めなければならないとも考えました。そこで、まず私が最初に行ったことが、社名を変更して「株式会社川崎フロンターレ」にしたことと、次に多くの方に出資してもらうこと、3番目にクラブのエンブレムから「FUJITSU」の冠を外したことでした。

憲剛 それは僕も印象に残っています。確かエンブレムを変更したのは04年末のことでしたよね。すでにフロンターレの選手としてプレーしていましたが、個人的にもかなり衝撃的でした。

01年の最低観客動員数は1169人だった

川崎Fにおいて最後のJ2時代を知る選手だった憲剛氏は、プロになった最初のホームゲームで観客の少なさに愕然とし、クラブ認知度を高めていく重要性を知った 【スポーツナビ】

――憲剛さんが加入したのは03年。地域に根ざした活動を積極的に行うクラブの姿勢をすぐに感じたのでしょうか?

中村 今も活動しているもののいくつかは、すでにスタートしていた記憶はあります。本当に「Jリーガーってみんな、こんなことやっているの?」って思いましたから(苦笑)。でも、他のクラブの選手に聞くと全く違った。きっと、当時の他のクラブはそこまでやる必要がなかったんだと思います。ただ、フロンターレの場合は、遡れば野球のロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)や大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)、そのあとヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)も川崎から離れ、スポーツが根付かない土地という印象を、周りにも地域の人たちにも与えてしまっていたように思います。武田さんがおっしゃるように、試合をやっているので来てくださいというだけではなくて、自分たちから地域の方たちに歩み寄り、認知してもらわなければ、スタジアムに足を運んでもらえなかったように思います。

武田 憲剛が加入した03年はまだまだ地域に浸透していない時期でしたからね。J1にいた00年の平均観客動員数が約7500人、J2に降格した翌01年は約3800人でした。

憲剛 僕が加入した03年の平均観客動員数は約7200人ですけど、動員が伸びたのもJ1昇格争いが佳境を迎えたシーズン終盤。だから03年のホーム開幕戦(J2第2節)、雨だったこともあって、ガラガラのスタンドを見て愕然(がくぜん)としましたからね。J2の開幕戦がサンフレッチェ広島とのアウェイ戦で、約1万2000人の観客が入っていただけに、なおさら衝撃を受けたことを覚えています。当時を知っているだけに今、チケットが完売になったり、満員の等々力(陸上競技場)を見たりするたびに感動や感謝するのも、そこにあります。

武田 憲剛も知らないだろうけど、01年の最低観客動員数は知ってる?

憲剛 知らないです……。

武田 1169人だよ。2万5000人のスタジアムに1000人くらいの観客しかいない。だから、フロンターレの試合はいつ行ってもすぐに入れるという評判になっていた。それを何とかしなければという思いで、ずっとやってきました。そうした時代を知る宏樹や憲剛はことあるごとに、当時のことを後輩にも伝えてくれましたが、だんだんとそうした選手もいなくなっていきますからね。ノボリ(登里享平)も確かJ2時代は知らないよね?

憲剛 そうですね。僕がJ2時代を知る最後の選手になります。ただ、時代は常に前に進んでいきますし、変わっていくものでもあります。それだけに、このタイミングでクラブの歴史を学んでもらえるようなもの(映画)が残せたのは、今後にとって良いことだと感じています。僕のことではなく、クラブの歴史を感じられる部分だけでも抜き出して、新人研修や新入社員研修のときに見てもらえたらと思います。

――話は変わりますが、武田さんは憲剛さんの加入記者会見に同席されていました。

憲剛 覚えてます?

武田 本人を前にして申し訳ないけど、正直、印象に残っていないんです。

憲剛 と思いました(笑)。大きな注目を集めて加入した新人ではないので、当然といえば当然ですけど。

武田 私は現場に関わっているわけではなかったので、選手の獲得について口を出したことはなかったんです。新体制発表会見のときも、社長として新加入選手を紹介するという立場で出席していましたが、選手ともそのとき、初めて会話を交わすくらいだったんです。

憲剛 武田さんがすごいところは、現場には一切介入しないところと、試合中の熱量がものすごかったところです(苦笑)。等々力のメーンスタンドが改修される前は、武田さんが座っている席からの声が、メンバー外の選手たちが見ている部屋にまる聞こえだったんです(笑)。試合中、いつもチームを叱咤(しった)激励する声が聞こえてきた。これだけの熱量を持ってチームを応援してくれているのに、現場をリスペクトして、一切介入しないのは本当にすごいなと思っていた記憶があります。

武田 私はサッカーが大好きなんですよ。でも、毎日、麻生グラウンドに行って練習を見ているわけではないので、例えば憲剛がその試合で活躍しなかったからといって、良いとか悪いとか言えるはずはないんです。これも例えばですが、大学サッカー部の試合にだけ来るOBの人っていますよね。それで試合だけを見て、ああでもない、こうでもないと演説を打ったりする光景を見かけたことがある。でも、私からすれば「1試合見ただけで何が分かるんだ」となる。だから、毎日練習を見ているわけでもない私が、チームに対して意見を言うのは間違っていると思っていました。

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著者プロフィール

1977年、東京都生まれ。『ワールドサッカーグラフィック』の編集長を務めた後、2008年に独立。編集プロダクション「SCエディトリアル」を立ち上げ、書籍・雑誌の編集・執筆を行っている。ぴあ刊行の『FOOTBALL PEOPLE』シリーズやTAC出版刊行の『ワールドカップ観戦ガイド完全版』などを監修。Jリーグの取材も精力的に行っており、各クラブのオフィシャルメディアをはじめ、さまざまな媒体に記事を寄稿している。

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