連載:憲剛と語る川崎フロンターレ

歴史を知る中村憲剛と武田信平が語る 川崎Fの両輪【憲剛と語る川崎フロンターレ02】

原田大輔

17年のJ1初優勝で証明された3つのこと

武田氏は17年に川崎FがJ1で初優勝したことにより、クラブの信念でもある3つのことが証明されたと語る 【スポーツナビ】

憲剛 ただ、これもまた武田さんのすごいところですが、定期的に練習場にも足を運んで練習の様子を見てくれていたんです。キャンプにも来てくれて、練習後は必ずスタッフの人たちとボールを蹴っていましたよね?

武田 私が何でキャンプに行っていたかというと、地元自治体の方にご挨拶するのはもちろんなんですが、監督やコーチ、スタッフたちとミニゲームができることも大きな楽しみだったからなんですよね。

憲剛 それが選手たちもうれしかったんですよ。選手たちはそういう姿も見ているんです。キックオフパーティーやパートナー企業との集いの場だけでなく、そうした場所にまで足を運んでくれて、一緒に食事を食べて、話しかけてもらえる。そうそう、ファン感でカツラをつけて歌ったこともありましたよね(苦笑)。そこかしこにチームへの愛を感じていたんです。当時のフロンターレはタイトルが獲れず、厳しい状況でしたけど、クラブを束ねる人も何とかしたいと思ってくれていると感じていました。スタッフの人たちが地域のイベントや試合のイベントを盛大にやろうとしても、トップがゴーサインを出さなければできなかったわけですからね。そうした姿勢と細かな配慮を、僕らも感じていたんですよ。

武田 だから、私もずっと思っていましたし、憲剛は何度も言っていましたけど、結果でその証明がずっとできなかったことが歯がゆかった。イベントやエンターテインメントにばかり目を向けているから優勝できない、2位止まりなんだと言われてしまうと……。

憲剛 何も言い返せなくなりますよね。

武田 だから、17年にJ1で初優勝してくれたときには、3つのことが証明されたと感じました。1つ目は、選手たちに地域活動やイベントに参加してもらってきたことが勝てない理由ではないということ。2つ目はサポーターがブーイングしないこと。サポーターは厳しくなければいけないというのが常ですが、フロンターレのサポーターは負けても拍手して、チームを鼓舞してくれる。自分たちが12番目の選手であり、選手としてもっと支えることができなかったから、チームは負けたという思いでいてくれた。優勝したことでブーイングしなくてもチームが勝てるということも証明できたわけです。最後、3つ目は、サッカーのスタイルですよね。ポゼッションサッカーといっても、ただボールを保持して後ろで回すのではなく、ボールを握り倒して、相手を崩して点を取るという魅力的でおもしろいサッカーを見せてくれた。その3つが証明できたことが、私はうれしかった。

憲剛 僕もその3つが今もフロンターレの軸であると思っています。特にふがいない試合をしたあと、選手としてはブーイングよりも拍手された方が心にズシリと響きました。やっぱり、この人たちを笑顔にさせなければいけないよなって、何度思わせてもらったことか。うちのファン・サポーターは日本一だから、この人たちが日本一になれないのは、僕らのせいだと思っていたので、優勝したことで、そこを証明できたことも僕はうれしかったんです。ただ、僕のなかでひとつ後悔が残っているとすれば、武田さんが社長のうちにタイトルを獲れなかったことです。

武田 そこは憲剛がうらやましいところですよね。私は15年に社長を退いているので、シルバーコレクターのままで終わってしまった。でも、憲剛は最後に獲ったじゃないかと、それが素晴らしくもあり、うらやましくもあります。

――武田さんは15年に社長を退任され、憲剛さんは昨年に選手を引退され、今は異なる立場でフロンターレを見つめています。今後のクラブに思うところはありますか?

武田 自分としては、常に初心を忘れずに歩んでいってもらいたいですね。ピッチ内であるサッカーとピッチ外である地域に根ざすという両輪を忘れずに持っていてもらいたい。成績については、必ず波があるものなので、きっと、良いときもあれば苦しいときもあるはず。でも、その両輪だけは忘れずにいてほしいというのが私の気持ちです。

憲剛 今シーズン、J1で優勝できなければ、選手たちは何と言われていたと思います?

――それはもう、中村憲剛がいなくなったから……。

憲剛 自分が同じ立場でも、その言葉は絶対に言われたくないと思ってプレーしていたはずです。だから、選手たちの今シーズンにおける覚悟は相当なものだったと思います。僕や守田(英正)を含め、シーズン途中には(三笘)薫や(田中)碧がいなくなりながらも、彼らはJ1で優勝した。自分の引退後のフロンターレも強くあってほしいと思って、晩年にアドバイスを送ってきた後輩たちが、しっかりと強いフロンターレを見せてくれての優勝でした。それによって自分が40歳で引退した決断が正しかったことも彼らは証明してくれました。

 僕は立場が代わり、違った形で内外に発信していく仕事をしていますが、大事なことを継承してくれた選手たちが、また次の世代につなげてくれていることを今シーズンのチームに見ることができました。シーズンを重ねれば重ねていくたびに選手は入れ替わっていくものですが、武田さんがおっしゃった両輪を選手たちも理解したうえで、今後も「強くおもしろいフロンターレ」の形を自分たちなり作っていってもらえればと思っています。

中村憲剛(なかむら・けんご)
1980年10月31日生まれ。東京都小平市出身。都立久留米高(現・東京都立東久留米総合高)、中央大を経て2003年に川崎フロンターレ加入。中心選手として17年、18年、20年のJ1リーグ優勝など数々のタイトル獲得に貢献。16年には歴代最年長の36歳で年間最優秀選手賞に輝く。20年限りで現役引退し、現在は育成年代の指導や、川崎フロンターレでFrontale Relations Organizer(FRO)を務めるとともに、解説者などでも活躍中。6月には現役最後の5年間について綴った『ラストパス 引退を決断してからの5年間の記録』(KADOKAWA刊)を上梓。
武田信平(たけだ・しんぺい)
1949年12月11日生まれ。宮城県亘理町出身。2000年12月に川崎フロンターレの代表取締役社長に就任し、15年4月に勇退した。約15年にわたり、クラブの社長を務めたのはJリーグ全クラブにおいても最長になる。その後、川崎Fの会長、特別顧問を歴任し、現在は日本アンプティサッカー協会理事長を務めている。

「中村憲剛メモリアルフォトブック」販売のお知らせ

 川崎フロンターレでは「中村憲剛メモリアルフォトブック」を販売する。 2003年のフロンターレ加入から2020年の引退に至るまで、18年間ピッチ内外で最も近くで最も多く撮影をしてきたオフィシャルフォトグラファ―・大堀優氏による撮影写真すべての中から、選りすぐりのもので構成。本フォトブックは、「川崎フロンターレ オフィシャルWEBサイト制作チーム」が、ケンゴへの18年間のリスペクトと感謝を込めて制作を手掛けた。 また、ケンゴとともに歩んだフロンターレのこれまでの歴史を写真と共に振り返る、記念になる特別な1冊となっている。

※購入は「中村憲剛メモリアルフォトブック専用オンラインショップ」でのみ可能

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著者プロフィール

1977年、東京都生まれ。『ワールドサッカーグラフィック』の編集長を務めた後、2008年に独立。編集プロダクション「SCエディトリアル」を立ち上げ、書籍・雑誌の編集・執筆を行っている。ぴあ刊行の『FOOTBALL PEOPLE』シリーズやTAC出版刊行の『ワールドカップ観戦ガイド完全版』などを監修。Jリーグの取材も精力的に行っており、各クラブのオフィシャルメディアをはじめ、さまざまな媒体に記事を寄稿している。

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