自衛隊から五輪メダリストが生まれる理由 知られざる「自衛隊体育学校」の歴史と誇り

平野貴也

計り知れない価値があった1964年東京五輪の2つのメダル

1964年の東京五輪重量挙げフェザー級で金メダルを取った三宅義信氏は、自衛隊体育学校17代校長を務めた。姪の三宅宏実は57年の時を経た東京五輪で重量挙げ女子49キロ級に出場予定 【写真は共同】

 1964年から57年続く活動の中でも、最初の東京五輪は大きな意味を持っていたという。自衛隊にとっても価値のある組織として活動の継続が認められ、選手強化のノウハウは脈々と受け継がれてきた。その中での「伝統」と「改革」が、今回の過去最多17人の選手出場につながっているという。

――さまざまな形でスポーツ界に貢献していますが、学校を持つことによる、自衛隊にとってのメリットは?

豊田 一番象徴的だと思われるのは、1964年の東京五輪です。17代校長の三宅義信さんが重量挙げフェザー級で日本勢最初の金メダルを取り、円谷幸吉さんが最後の最後に男子マラソンで国立競技場のメインポールに日の丸を揚げました。1945年の敗戦後、50年の警察予備隊発足から、54年の防衛省・自衛隊へと再編が進む過程で、防衛省・自衛隊が国民に理解され歓迎される組織でなかったことは厳然たる事実です。その中で、2人の自衛官が獲得したメダルは、国民はもとより、隊員やその家族に誇りと希望を与えました。あの2つのメダルは防衛省・自衛隊にとって計り知れない価値のあるメダルだったと思っています。現在も、熱海の災害派遣現場やアフリカのジブチ共和国、そしてオリンピック支援で多くの自衛官が活動していますが、自衛官アスリートが五輪に出場しメダルを獲得するということは、昔も今もそのような価値を持つのではないでしょうか。

――歴史の積み重ねにより、レスリングやボクシングは、自衛隊体育学校で育った選手が次世代のメダリストを育てるというサイクルも生まれていますよね。

豊田 そうですね。ただ、今回17名の代表選手を送り出したことは、2012年のロンドン五輪で4人のメダリストを輩出したことと、その後に実施した改革の成果だと思っています。2020年に東京での五輪開催が決まったことで、体育学校としては国別代表制度が廃止されて以降の最大値である「出場選手12名、メダル4つ」を目標に掲げ、メダリストからの意見も取り入れ、施設の新設、組織や制度の改善等を行ってきました。高校生のスカウトに対する新たな採用基準の導入も大きかったと思っています。今後も、「強くなるための変革」を恐れずに、このサイクルを確固たるものにしていきたいですね。

――出場選手数の目標は達成しました。あとは、五輪で成果を期待するのみですね。

豊田 目標は目標として、まずは選手全員が自分のために悔いなく戦い切ってくれることを望んでいます。選手は幼い頃から人生の大半を競技にかけています。競技にとどまらず、家族や恩師、さらには故郷等に対する想い、さらにはコロナ禍での1年延期ということもあり、胸中に数多くの想いを抱えています。その想いを本番にぶつけ、最高のパフォーマンスを発揮してくれることが、最良の結果につながると考えています。

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著者プロフィール

1979年生まれ。東京都出身。専修大学卒業後、スポーツ総合サイト「スポーツナビ」の編集記者を経て2008年からフリーライターとなる。主に育成年代のサッカーを取材。2009年からJリーグの大宮アルディージャでオフィシャルライターを務めている。

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