酒井宏樹がマルセイユで過ごした激動の5年 “チーム唯一の本当の友”との再会の五輪へ
ファンの暴動、監督辞任でOMはカオスの中に
待望のCLも無観客の中、グループステージで敗退し、冬場に成績不振が続く中、1月30日、自称サポーターたちによる練習場襲撃事件が勃発する。350人ほどのサポーターたちがマルセイユの練習場に押し寄せ、門を突き破ってセンター内に侵入。植木を燃やし、駐車してあった車を破壊しながら、試合の準備中だった選手たちのいる建物に暴徒となって押し寄せたのだ。最終的に機動隊によって鎮圧される前に、彼らはなだめようとして出てきたビラス=ボアス監督やアルバロ・ゴンサレスにも、物を投げるなどの暴行を働いた。
そしてその3日後の恒例記者会見で、今度はビラス=ボアス監督から「自分が獲りたくないと言った選手が獲得されていたことを、メディアを通して知り、そのようなことをするクラブの方針に同意できないと感じたことから、辞表を提出した」という爆弾発言が飛び出した。これに激怒した当時の会長、アンリ=ジャック・エロー氏はビラス=ボアス監督の即座の停職を発表。突如、監督まで失ったOMは、さらなるカオスへと突入する。臨時監督を経て、サンパオリ監督がやって来るのは、それから約1カ月後のことだった。
サンパオリ監督下で取り戻した信頼とやりがい
2人のウイングバックと3人のセンターバック(CB)を起用するサンパオリの新システムの中で、酒井は右SBというより、3バックの一角の候補とみなされ、CB起用に興味のあった酒井にとって、それはうれしい挑戦だった。そして新監督の下、酒井は「信頼されている」という感触を取り戻す。
新監督下で3バックの一角として初先発した4月4日のディジョン戦で、酒井は説得力のあるプレーを見せ、地元記者の評価でも、このポジションのレギュラー候補に浮上した。この試合後、酒井は「結果が出てほっとしている。また3バックはやりたかったポジションでもあったので、個人的にも楽しめたし、いい緊張感を持ってやることができた」と久方ぶりに明るい声で心境を吐露。3バックを好む新監督のシステムで、自分の適所はそこだと信じる酒井は、「僕は元々CBでプロになった。このシステムでは3バックの右か左が自分に適した位置だと思うし、今日、それを証明する必要があった」とこの試合にかけた気持ちを明かしていた。
このように土壇場で起死回生の空気が生まれる中、オフレコで酒井は移籍について、「サンパオリ監督が来るのが遅すぎた」と話した。就任は2月26日だが、ブラジルから渡仏した新指揮官はコロナ規制で隔離を義務付けられ、実際に指導を始めたのは3月8日。マルセイユを離れようという酒井の気持ちは、それまでに固まっていたのだ。
チームはこれまでとは全く違う新システムへの順応に四苦八苦していたが、それでも、何をやりたいのかよく分からなかったOMのサッカーに、明確な方向性が生まれたのは確かだ。それはボールを失うなり激しいプレスを仕掛けて奪い返し、ボールを保持し、前に向かっていくサッカーであり、うまくできないなりにチームは新しいチャレンジに活気づいた。戦略的に非常に綿密な指示を与える監督下で、酒井は「短い間に本当に多くを学んだ」と語っている。
「また会おう兄弟、君とプレーできたことを誇りに思う」
「また会おう兄弟、本当にありがとう。君に会えなくて寂しくなるよ。君と一緒にプレーできたことをうれしく、そして誇りに思う」
酒井が入団したシーズンに一足遅れでOMに戻ってきたトーバンは、フランス代表に呼び戻されるほど大活躍した時期を過ごし、その後、故障で1年を棒に振った後、酒井とほぼ時を同じくしてメキシコのティグレスに移籍を決めた。ト―バンが記者会見でマルセイユに別れを告げたホーム最終戦の後、酒井は「フロとはかなり長く話し、ずっと連絡を取り合おう、と言い合った。彼はもしかすると唯一の、ここで出会った本当の友達かもしれない」と言った。
「僕は彼のおかげで活躍できた。本当に彼には、相当なものをいただいている。フロもこのクラブを出るし、やはりいろいろな意味で、今が(去るべき)タイミングだったのだと思う」
それも運命なのだろう、という言葉を酒井は何度か口にした。ならば、非欧州国に移籍したことで、図らずしてこの2人が五輪代表に選ばれ、日本で早くも再会することになったのも、運命の優しいいたずらと言えるのかもしれない。