酒井宏樹がマルセイユで過ごした激動の5年 “チーム唯一の本当の友”との再会の五輪へ

木村かや子

酒井が「チーム唯一の本当の友達」と呼んだかつての相棒、トーバン(右)。2人は五輪で再会する 【Gettyimages】

 オリンピック・マルセイユ(OM)の酒井宏樹が、欧州から去ることを告げてからはや1カ月半。今、酒井は東京五輪を皮切りに、日本での新しい冒険に挑もうとしている。5年間苦楽を共にし、自身「おそらくチーム唯一の本当の友達」と呼んだマルセイユ右サイドのかつての相棒、フロリアン・トーバンと酒井が五輪で再会するというのは、ちょっぴり粋な運命のいたずらだ。

 フランスリーグとマルセイユの人々の心に最も深い足跡を刻んだ日本人、酒井宏樹がそこで何を築き、どのような経緯で欧州から去る決断に至ったのかを、本人の言葉で紐解いていこう。

インスタグラムでひっそりと告げた「ありがとう。そしてさよなら」

17-18年シーズン、酒井はヨーロッパリーグ決勝進出への過程でフランス全土に熱狂を生み出した 【写真:ロイター/アフロ】

 リーグアン最終節翌朝の5月24日、インスタグラム上にひっそりと出されたフランス語のメッセージを通し、酒井宏樹は5シーズンを過ごしたマルセイユから去ることを発表した。背番号2のユニホームを着た後ろ姿の写真に添えられた、「この素晴らしいユニホームのために常に全力を尽くした。すべての幸福な瞬間、また悲しみの瞬間さえもが、宝物として僕の中に残り続ける」という言葉。「最後の試合が終わるまで100%、OMの選手でいたい」という思いから、移籍に関し公言を避けていた酒井が、ファンたちに送った感謝のメッセージだった。

「すべてをひっくるめ、素晴らしい5年間だった。本当に、何も悔いはない。もちろん途中では、悔しさや、大変なこともあったけれど、やり残しは一切なし。責任感をもってこのユニホームを身に着け、常に全力で戦った。そのチャンスを与えてもらったことに、すごく感謝している」

 酒井はマルセイユでの経験をこう要約した。実際、マルセイユで過ごした5年の間に、才能ではチームのトップではなかったとしても、常に全力を尽くし、一貫性のある働きを提供する頼れる駒として、酒井は地元ファンの間で愛され、認められる存在になっていた。

 ルディ・ガルシアに信頼され、成長した3年間。中でも2017-18年シーズンには、ヨーロッパリーグ決勝進出への過程で、フランス全土に熱狂を生み出した。準々決勝で酒井が決めた、「勝利を決定づける5ゴール目」は、いまや伝説の1ページとなってマルセイユの歴史書に刻まれている。折しも誕生日だったその日、1点を許せば敗退という緊迫した場面で、酒井のシュートが無人のゴールに吸い込まれ、ファンと仲間の歓喜を爆発させた瞬間は、今もここ10年で最もファンをゾクゾクさせた感動のシーンのひとつに数え上げられている。

 アンドレ・ビラス=ボアス監督下では苦労もしたが、念願のチャンピオンズリーグ(CL)行きを果たし、最後にやってきたホルヘ・サンパオリ監督には大きな信頼を寄せられて、旅立ちの直前まで、「君はここに残るんだ」と説得され続けた。

思わず漏らした「信用されていないんだな、と感じた」という言葉

ビラス=ボアス新監督を迎えた19-20年シーズン、酒井は終了まで足首の故障を引きずることに 【写真:ロイター/アフロ】

 そんな酒井がOM離脱を決めた理由は、恐らく、ビラス=ボアス新監督を迎えた19-20年シーズンに根源を持つ。厳しく指導しながらも酒井に全面的信頼を寄せていたガルシア監督が去り、やって来たビラス=ボアス監督は、システムをガルシア時代に定着していた4-2-3-1から逆三角形の3ボランチを固定した4-3-3に変更。このシステムでは、自分のような内側の選手にボールを預けながら上がっていくサイドバック(SB)より、多少守備力が低くともドリブルで一気に前に上がれるような選手が求められている、と感じていた酒井は試行錯誤を続け、加えて9月に負った足首の捻挫が治癒せず、この故障をシーズン終了まで引きずることになった。

 実際、シーズン後半には、監督が右SBのポジションでブナ・サールの方を好むような傾向も見られ始めたのだが、この状況下で皮肉だったのは、これで酒井の出番が減ったわけではないことだ。サールや左SBのジョルダン・アマビらの故障のせいで、酒井はむしろ、足首の故障を押して試合に出続けることを強いられた。「体調が万全でない中で試合をしなければならないため、パフォーマンスの質が落ちる」というジレンマを抱えながらも、チームを助けるため無理して試合に出続けているうちに、コロナ禍でリーグが打ち切りに。これにより、ずっと待たされていた手術を即座に決行した酒井は、「シーズンを通して監督やサポーターにとって絶対的選手でいられなかったことが残念」と漏らしていた。

 こうして迎えた20-21シーズン、プレシーズンの練習試合ではサールが右SBで先発起用され、ポジション争いが予想されていたが、蓋を開けてみれば、開幕戦からスタメンを張ったのはやはり酒井だった。サールの故障、後に移籍があり、酒井は手術明けにもかかわらず連戦に取り組むことに。いくつかの小さな故障で短期間の離脱はあったが、サールが移籍してからは、1人の交代要員もいない状況下で、どんなに疲労していても3日おきの連戦を余儀なくされることになった。

 酒井自身が交代要員の獲得を嘆願していた中、冬の移籍市場で、ついに新右SBのポル・リロラが加入する。ところが1月16日のニーム戦で、リロラが右SBで先発起用された時、酒井は休みをもらう代わりに左SBで先発した。そして敗戦に終わったこの試合の後、それまで決して不平を述べたことがなかった酒井の口から、「最近、右サイドであれだけ良いプレーをしていただけに、ここで急に左というのは……」という言葉がこぼれたのだ。

「信用されていないんだな、という感じを受けた。それがすごくショックです。新しい選手が入ったらすぐに右で使い、(僕は)左で、というのは……ちょっときつい」

 この後、「起用されたからには、左でもクオリティーの高いプレーを提供しなければならないので、それは自分の責任」とすぐに言い添えたものの、漏らしたその言葉は正直な気持ちだった。

 クラブは実際、多少故障があっても、動ける状態ならばチームのために無理してでも働く酒井をかなり酷使していた。特に日程が過密だった冬場、疲労からプレーレベルが落ち、それゆえ酒井が批判される、という不条理が生じていたのだ。その後も、リロラの右SB起用が続く中、監督に信頼されていない、と感じた酒井が移籍を真剣に考え始めたのは、ある意味で予想できたことでもある。

「僕ら外国人は非EU(欧州連合)枠をとっているわけだから、もし必要とされないなら、よそに行くだけ」
 こんなつぶやきが漏れたのも、このころだった。

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著者プロフィール

東京生まれ、湘南育ち、南仏在住。1986年、フェリス女学院大学国文科卒業後、雑誌社でスポーツ専門の取材記者として働き始め、95年にオーストラリア・シドニー支局に赴任。この年から、毎夏はるばるイタリアやイングランドに出向き、オーストラリア仕込みのイタリア語とオージー英語を使って、サッカー選手のインタビューを始める。遠方から欧州サッカーを担当し続けた後、2003年に同社ヨーロッパ通信員となり、文学以外でフランスに興味がなかったもののフランスへ。マルセイユの試合にはもれなく足を運び取材している。

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