連載:あのJリーガーはいま

財前宣之「天狗になって伸び悩んだ」 いま明かすケガ、海外移籍、ヒデのこと

栗原正夫
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Jリーグ開幕元年の93年夏、日本開催となったFIFA U-17世界選手権(現U-17W杯)で日本代表の背番号10をつけ、天才と評されていた財前宣之 【写真:AFLO】

 Jリーグ開幕元年の93年夏、日本開催となったFIFA U-17世界選手権(現U-17W杯)で日本代表の背番号10をつけ、天才と評されていたのが読売ユース(現ヴェルディユース)の財前宣之だった。

 財前は小学校卒業を前に、約400倍とも言われたテストを勝ち抜き読売ジュニアユースに加入。すると、めきめきと頭角を現し、のちに中田英寿を含めW杯に出場するメンバー4人がいたU-17日本代表においても絶対的な存在となっていた。その才能については長くヴェルディで育成年代の指導にあたり、当時U-17代表でコーチを務めていた小見幸隆氏も「すべてのプレーはザイ(財前)をモデルに他の選手に教えていた」と高く評価するほどだった。

 17歳の財前はある意味、日本では無双だった。だが、そのキャリアは大ケガに見舞われるなどして暗転してしまう。

十代の頃は技術でフィジカルの弱さを補えていたが……

 95年にヴェルディのトップチームに昇格した財前は、間もなくイタリア・セリエAの強豪ラツィオのプリマベーラ(20歳以下)に留学。しかし、留学後ヴェルディに1度戻り、ブラジルでの大会に参加していたところ左ひざの前十字靭帯を断裂し、全治約8カ月から1年との診断を受けることに。それでも、半年後にスペイン1部ログロニェスへの移籍が決まると復帰を急ぎ、チームに合流。そして、不運にも左ひざの前十字靭帯を再断裂してしまい、公式戦に1試合も出場することなく帰国を余儀なくされてしまった。

「めっちゃ努力していたので、自分では天才と思ったことはないんですけどね」と話し、財前はこう続けた。

「中1で読売(ヴェルディ)に入った頃は、それこそ20人いたら20番目みたいな選手だったんです。でも、十代の頃って代表に入って10番をつけたいとか、自分が一番になりたいとか、いま振り返ると鼻息が荒かったですね。当初は鳥かご(ボール回し)でおちょくられたりして、コンチクショーって思いもあって、泣き言一つ言わずに千葉の船橋から毎日片道2時間半くらいかけて読売ランドまで通っていました。

 そのあと実際に代表で10番をもらい、天狗になって人の話に耳を傾けない自分もいました。そうなると伸び悩みますよね。本来は体を作ったりしなきゃいけないのに、技術でカバーすればいいと思っていたというか。でも、カテゴリーが上がってくると徐々に身体能力的に厳しくなってくる。だからラツィオに行ったのは、ある意味逃げで……。ヴェルディのトップに上がっても周りには(ラモス瑠偉や三浦知良など)1億円プレーヤーみたいな人がいっぱいいて試合に出られないと思っていたんです」

 ラツィオでは同じ年のネスタやディヴァイオ(ともに元イタリア代表)らと一緒にプレーした。技術では劣っていなかったものの、イメージだけが一流になっても体がついてこないと感じることがあった。

「たとえば中田は、(高校卒業時に)たくさんのオファーがあった中から試合に出られそうなベルマーレを選んで、Jリーグで実績を積んでからイタリアに行きましたよね。片や、自分は日本で何もやってなかったわけです。いまの僕が当時の財前宣之に声をかけるなら、『Jリーグでも結果を出してないのに、オマエどうやって欧州でやるの?』って言いますよ(苦笑)。でも、当時はそんなこともわからなかった。

 元々、中田はうまい選手かといえばそうじゃなかった。けど、身体能力はズバ抜けていたし、走れるし、何よりすべてに貪欲でした。言葉の勉強はもちろん、将来に大金を稼いだときのために簿記の勉強をしたり。こっちはノリでやっていたのに、彼には計画性があった。それが本当の一流なんだと思います」
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著者プロフィール

1974年生まれ。大学卒業後、映像、ITメディアでスポーツにかかわり、フリーランスに。サッカーほか、国内外問わずスポーツ関連のインタビューやレポート記事を週刊誌、スポーツ誌、WEBなどに寄稿。サッカーW杯は98年から、欧州選手権は2000年から、夏季五輪は04年から、すべて現地観戦、取材。これまでに約60カ国を取材で訪問している

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