D・ローズが回顧する2011年プレイオフ レブロン、ウェイドがいたヒートとの死闘

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第1回

2011プレーオフ、イースタンカンファレンスファイナルはブルズとヒートが激突。ローズとレブロンのマッチアップなど5戦で終わったが見どころは多かった 【Getty Images】

 僕がACL(前十字じん帯)を断裂するまで、2011-12シーズンはブルズのものだとみんなが考えていた。前年のカンファレンス・ファイナルではマイアミ・ヒート(ドウェイン・ウェイドに、レブロン・ジェームズとクリス・ボッシュを加えたビッグスリー率いるヒートは、2011年のファイナルまで勝ち進んだものの、ダラス・マーベリックスに敗退し、優勝を逃した)に敗退していた。シリーズは5試合で終わったが、レギュラーシーズンはうちが全勝し、プレイオフでもホームで行なわれた初戦を勝利していた。2試合厳しい敗戦があり、第4戦はオーバータイムの末に落とし、シリーズ敗退を決めた試合は接戦だった。1勝4敗とは思えないほど競ったシリーズだった。次こそ僕らの番だという感じがしていた。勝つためには敗北を知る必要があった。ブルズとデトロイト・ピストンズのライバル関係(1988-91年にかけて、アイザイア・トーマス率いる通称「バッド・ボーイズ」ピストンズとマイケル・ジョーダン率いるブルズがイースタン・カンファレンス・ファイナルで対戦。3シーズン連続で敗退していたブルズは91年についにピストンズに勝利し、初優勝を遂げた)のときにも言われていたことだ。当時も負けを経験してから、彼らの時代がやってきた。2011年は、僕らにとってそれだったんだ。

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 僕らはいつか優勝するとずっと思っていた。確信していたんだ。ティブス(トム・シボドーHCの愛称)となら、常にチャンスがあると感じていた。2011年のプレイオフでヒートに1勝3敗で追い詰められたときだって、逆転できると信じていた。あの年は、第3戦でオメール・アーシックが怪我をしたんだ。我々にはサイズがあったので、もし彼が怪我をしなければシリーズの行方は変わっていたかもしれない。僕らに自信はあったものの、各試合でしっかりと作戦を遂行できない場面が何度かあった。マイアミはアグレッシブなプレイスタイルなので、それを相手に犯したいくつかのターンオーバーが致命傷になった。振り返ってみれば、もう少し上手くできたと感じることが多かった。
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