相馬勇紀、「超過保護」な母との絆 時に疎ましく感じた少年時代
テニス一家に育つもサッカーにのめりこむ
1歳の時に母親の靖子さんと父親の安紀さんと行った、ハワイ旅行での一枚 【写真提供:相馬選手ご家族】
父と母はともに学生時代、テニスに打ちこみ、子どもにもテニスをやってもらいたかった。小さい頃からラケットを握らせ、勇紀も楽しんでいるように見えた。でも本格的に習わせるのは、数百グラムあるラケットを苦にせず振れるようになる小学校高学年になってからと考えていた。
それまではいろいろなスポーツを経験させようと、幼稚園生の時に三菱養和会のサッカースクールに行かせた。ただスクールでは試合を行わないため、子どもの思いをくんで小1の6月に、サッカースクールと並行して地元の布田SCというサッカー少年団に通わせるようになった。ちなみに、父親の安紀さんは息子が小2の時にC級コーチライセンスを取得。以降、現在に至るまで布田SCのコーチを務めている。
この時すでに、勇紀の心はテニスから離れ、両親が望んだ道から外れていた。本人はチームスポーツのサッカーの方がより楽しく感じた。布田SCでは小2の時から“飛び級”で上級生の試合にも出場するようになり、学年を重ねるにつれて、強豪ユースチームを抱える三菱養和会のスクールでも際立った存在となった。スクールのコーチからも三菱養和SC調布ジュニアのトライアルを受けてみては、と誘いが来るようになった。
靖子さんは当時こう考えていた。「いろいろと調べていく中で、12歳までが“ゴールデンエイジ”と言われ一番たくさんのことを覚えられると。養和には元選手のコーチもいたから、そういう人たちに教えてもらった方がよりいいのでは」と。勇紀も「僕らのチームもわりと強かったけど、受験などでサッカーをやめる友達もいて。そんな中で、養和から声をかけてもらって、行くなら今かなと」と思い、両者の想いは合致した。
勇紀の記憶をたどると、中華料理店で食事をしている時に両親に「俺、受けるよ」と話し、入団テストを受験することになった。参加者約50名、合格者たった2名と難関だったが、勇紀は2人のうちの1人になり、それから高校時代まで三菱養和のユニフォームを着ることになる。
三菱養和SCユースから早稲田大学へ
小6で名門チームの三菱養和SC調布ジュニアに加入し、10番を背負った 【写真提供:相馬選手ご家族】
それでも母親の靖子さんは楽観視していた。勇紀のスクールでの恩師であり、現在は三菱養和SCユースのコーチを務める大槻邦雄から「体が小さい時に、大きい選手たちに対抗できれば、体が大きくなった時にもっとできるようになりますから」と言われ、「だったら背が小さいことは得だなって」
本人は今でこそ「不利なのは空中戦ぐらいで、サイズは関係ない。大きい相手の方がスピードを生かしやすい」と考えているが、体ができあがっていない中ではフィジカル面の差に思い悩んだ。三菱養和SC調布ジュニアユースでは中2の時にベンチ入り、中3になって出場機会をつかみ、三菱養和SCユースへの昇格を勝ち取った。しかし、その後もサイズの差はついて回り、高校2年生の時には何もかもうまくいかず、サッカーをやめることも考えた――。そこからの復活劇は、すでに述べたとおりだ。
高校進学に際して、靖子さんは自宅から徒歩4分の調布南高校への入学を勧めた。それは勇紀の考えともシンクロしていた。母親は子育てにあたって、何よりも睡眠を大事にしてきた。「子どもには身長を伸ばすためにもとにかく寝なさいと。小学生の時は7時か8時に、中学生の時は9時に寝かせていました」。子どもの頃からそう教えこまれた勇紀も「母親は160センチと女性の中ではわりと大きく、自分はよく寝たから大きくなったと思っているみたいで。しっかり寝なさいと言われていたし、家から近い学校なら睡眠時間も多く取れるしいいかなと」と考え、加えて校舎が新しくキレイだった点にも惹かれた。
勇紀の住む家から三菱養和SCユースの練習場まで約1時間、往復で2時間かかる。睡眠時間を多く確保するためには通学時間をできるだけ短縮したい。安易な発想だが、サッカーを第一に考えた上で、また先々を見据えた上でもベストな選択だった。
調布南高校へは受験ではなく推薦での入学を目指した。ただ、サッカーに多くの時間を割き、塾に通う時間がなかったため、靖子さんが専属の家庭教師となって、勇紀をサポートした。本人は「もし見てくれていなくても自分でやっていたと思うけど」と前置きしながらも、「問題集を買ってくれて、必然的にやらなきゃいけない環境を作ってくれて、おかげで成績が良かったのでありがたかった」
国体優勝、クラブユース選手権制覇と、順調に結果を残し、その間、高2の終わりには湘南ベルマーレの練習に参加した。「緊張していたけど、スピードでは通用する部分もあった。体や走力などで差を感じたけど、届かない場所ではないと思った」。もっとも、「(Jクラブから)オファーが来ていたわけではないので、大学には行こうと思っていた」。そして、進学したのは早稲田大学だった。
※リンク先は外部サイトの場合があります