斎藤佑樹を育んだ中学時代の思考とは!? 自分の可能性を信じることの大切さ
“まだ見ぬ自分への可能性”を信じた中学時代の斎藤。結果、高校時代に大きな花を咲かせることにつながった 【写真は共同】
それが甲子園決勝、駒大苫小牧との延長15回178球を投げての再試合で、研ぎ澄まされた感覚を呼び、名門・早稲田実に夏の初優勝をもたらした。4連投となった再試合について、「自分の思った通りに体を動かせて、思い通りの野球ができる……そんな感じでした」と明かしている。
では、根を広げて芽を出したのが小学生のとき、花を咲かせたのは高校生のときだったとしたら、中学時代の斎藤はどんなふうに野球と向き合ってきたのだろう。幹や茎を太くしたはずの中学時代、彼は『こういう花を咲かせてやろう』という現実的な近未来をイメージしていたのである。そこを、斎藤自身の言葉で振り返ってみたい。
リアルに考えていたのは甲子園より神宮
当時、リアルに考えていたのは甲子園よりも神宮(大学野球)でした。そのためには地元の太田高校に入って、勉強と野球を両方とも頑張って、いずれは大学へ行きたかった。そもそも僕は中学で野球をメインにするのは違うのではないかと思っていて、勉強もしながら野球もやりたかったんです。父からも『文武両道を目指せ』と言われていました。
早実に誘われ「甲子園に行ける」
中学生の頃って、自分の可能性を見出したい時期じゃないですか。自分は他の人とは違うんだという可能性を初めて感じたのが、早稲田実から声をかけていただいたときでした。そのときに僕は、これは甲子園に行けるな、と思いました。よっぽど自分の可能性を信じていたんでしょうね(笑)。当時の早稲田実はずいぶん夏の甲子園から遠ざかっていましたし、周りの人たちも群馬の強豪校へ行ったほうが甲子園へ行けるのに、と言っていました。でも僕にとっては、甲子園へも行ける、勉強もできて大学へも行ける、他の人とも違う可能性を追い求めることができる……いろいろな意味で、早稲田実は最高の高校でした。
野球を考える力を身につけた環境
あと、この時期に野球を考える力を身につけたと思っています。中学の野球部には監督がいなかったので、チームがどういう方向で練習したらうまくなるのか、ここでバントをするほうがいいのか、ヒットエンドランのタイミングはいつがいいのか、牽制はどうやるのか、そういうことを自分で考えていました。
失敗しても次があると思っていた
だから、何かにぶつかって物事がうまくいかなくても、僕は失敗しても次があると思っていました。ひとつの失敗を重く捉えないというか……それは、失敗を軽く考えているわけではないんです。全力でバーンとぶつかって、それが失敗だったとしても、次へ切り替えるために何か新しいものを自分の中に作ろうと常に思ってきました。だから、負けた悔しさは残らない。それが、僕を支える武器になってきたと思っています」
そのままでいいと思える中学時代
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