楽天出身の新社長が集客にこだわる理由 Jリーグ新時代 令和の社長像 山形編

宇都宮徹壱

仙台89ERS社長が語る楽天時代の相田

仙台89ERSの渡辺太郎社長。楽天球団設立時には相田社長の同僚で、一緒に仕事をする機会が多かったという 【宇都宮徹壱】

 なかなかJクラブの社長が言えるセリフではない。おそらく「水戸→楽天→神戸」という、そのユニークな経歴が関係しているのだろう。とりわけJクラブとなって間もない頃の水戸時代(03〜06年)から、新球団として急成長を続けていた楽天時代(07〜17年)のギャップはすさまじい。水戸時代に「3年で1億円の売り上げ」という目標を達成したものの、当時のサッカー界に限界を感じていた相田は、プロ野球界への転身を図る。

「とはいえ僕自身、それまでそんなに野球って好きじゃなかったんですね(苦笑)。それでも、初めて楽天の球場を訪れたときには、やたら感動したのは覚えています。スタンドからフィールドが近いし、スポンサー看板もズラッと並んでいるし、大型ビジョンもきれいだった。一瞬『これではサッカーは太刀打ちできないな』って思いました。でも、すぐに『だからこそ負けちゃダメだ。ここで絶対に何かを吸収してやろう!』と心に決めました」

 楽天時代の相田の仕事ぶりを、ごく間近で見ていた人物が仙台にいる。Bリーグ・仙台89ERSの渡辺太郎社長だ。相田よりも5歳下だが、楽天には球団設立時の04年に入社しているので、社歴では3年先輩。のちにBリーグとJリーグのクラブ社長となる2人は、09年から12年まで一緒に仕事をする機会が多かったという。以下、渡辺の回想。

「楽天の社風は、とにかくベンチャー。その行動指針は『スピード!! スピード!! スピード!!』でした。私は営業企画で相田さんは営業でしたが、縦割りの組織ではないので、よく2人で組んで仕事をしました。日本で初めて、米国のマジェスティックとユニホームのサプライヤー契約を結んだのも、僕らの仕事です。基本的に僕が企画を考えて、相田さんが営業するという役割分担でしたが、周囲を巻き込む力は当時からありましたね」

 そんな2人が、バスケットボールとサッカーという異なる競技の世界に飛び出し、それぞれクラブ社長となったのは偶然なのだろうか。実は彼らの決断には、楽天イーグルスの立花陽三社長が、間接的に影響を与えている。立花は外資系証券会社の執行役員を経て、三木谷浩史球団オーナーのオファーを受ける形で12年に楽天イーグルスの社長に就任。17年からはヴィッセル神戸の社長も兼務している。再び、渡辺。

「立花さんの『スポーツビジネスの世界にも人材の流動が必要』という言葉が決め手のひとつになりましたね。選手ではなく、事業側でも1億円プレーヤーが現れてこないと、日本のスポーツ市場は広がっていかない。それを自分自身で証明したくて、Bリーグでチャレンジすることにしました。僕が先に決断をしたので、相田さんも山形からのオファーを受けやすかったんじゃないですかね(笑)」

突然のサッカー界復帰と山形の社長就任

14年末にヴィッセル神戸が楽天グループへ参入すると、相田はイーグルスからの出向が決まった 【写真:築田純/アフロスポーツ】

 相田の経歴に話を戻す。楽天イーグルスでのキャリアは10年半におよび、その間には15歳以下の硬式野球チーム(東北楽天リトルシニア)設立を主導するなど、ユニークで精力的な仕事を続けてきた。ところが期せずして、再びサッカー界に復帰するチャンスが訪れる。17年7月、ヴィッセル神戸への出向が決まった。

「ヴィッセルに関しては、14年末に楽天グループに入ったと記憶しています。その年の開幕戦で、集客企画や運営を楽天(イーグルス)に『手伝ってやってほしい』という話があって、多くのイーグルスの職員が神戸に赴いたと聞いています。どこまで本気だったのか分かりませんが、『神戸に行ってみるのってどう?』というお話をいただいた事もあった気がします」

 神戸といえば、昨年のアンドレス・イニエスタの加入が象徴的なように、ビッグクラブへの道を駆け上がる派手なイメージが強い。しかし17年当時のクラブは「少し課題が出てきた時期だったのでは」と相田。こうした背景もあり、立花から「お前、サッカーやってたんだろ?」ということで、神戸の現状と課題点の洗い出しを命じられる。

「まず現地でやったのが、当時の社長をはじめ、役員、監督、コーチ、強化スタッフ、選手といった方々とお話をさせていただきました。与えられた2週間という期間の中で、ヴィッセル神戸がどういう状況なのかを報告書にまとめて、それを立花さんにご報告したんですね。それで『どうしましょうか?』って聞いたら『お前がやるんだよ!』って言われました(笑)」

 神戸で相田が断行した改革については、本稿のテーマからは外れるので詳細は省く。もっとも、当人いわく「結局、ここ(山形)でやっていることと基本は一緒だと思います」。それから1年半後の現在、山形の社長に就任した相田は、自身の経験とナレッジを惜しみなく故郷のJクラブに投入している。特に力を入れたのが集客で、その発想は楽天時代に培われたものであった。

「もともと楽天ができたばかりの頃は、平日の入場者数が1万人いくかいかないか。週末で、やっと2万人くらいでした。それを立花さんは『これじゃダメだ!』とおっしゃっていたんですね。『観客数を増やしていくことで、選手のモチベーションを上げていかないと。強くなるには、お客さんをもっと入れないといけない』と。楽天は13年に優勝して、翌年以降は平均観客動員数が2万人台になったのですが、それは会社が集客の努力を続けた結果です。当時はマー君(田中将大)がいましたが、絶対それだけではなかったと思っています」

<後編につづく。文中敬称略>

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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