連載:W杯から東京2020へ――平成バレー界のエースが語る

バレーW杯で得た自信が五輪につながる 山本隆弘の記憶に残る衝撃的なブラジル戦

田中夕子
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「全部自分で決めてやる」という強い気持ちて戦ったという山本氏に、W杯の思い出を振り返ってもらった 【撮影:熊谷仁男】

 女子に続いて10月1日から「FIVBワールドカップ(W杯)バレーボール男子大会」が開幕する。昨年の世界選手権はイタリア開催だったため(1次ラウンドはブルガリアでも開催)、日本ではあまり試合の様子を目にする人も多くはなかったが、日本開催となる今大会は連日テレビ中継もされ、多くの注目を集める。2003年のW杯で“スーパーエース”としてチーム、そして出場全選手の中で最多得点を挙げ、MVPを受賞した山本隆弘さんに、現役時代のW杯について、そこで得た自信が五輪につながった経緯について振り返ってもらった。

9位に終わったにもかかわらずMVP

大会MVPに輝いた03年W杯。しかし、途中で捻挫をしてしまい、悔しい結果に終わった 【写真:アフロスポーツ】

――現役時代を振り返って、「W杯」いう大会はどんな位置づけの大会でしたか?

 当時は上位3チームに五輪出場権が与えられたので、「獲れるものなら獲りたい」と思っていました。世界選手権は出場国が多く歴史も長いですが、やはり「五輪」が絡むW杯はまた特別な大会。過去、W杯で出場権を獲ったチームが五輪でも必ずと言っていいほどメダルを獲っています。まさしく、「五輪前哨戦」と呼ぶにふさわしい大会だと思います。

――山本さんが出場された頃、日本代表はどんなチームでしたか?

 00年に初めて代表に選ばれたときはまだ、ガイチ(中垣内祐一・日本代表監督)さんがいて、僕はまだ学生でした。同世代の選手も多くて、最初は学生選抜の延長みたいな感じでしたが、やることはきっちりしていたし、規律もありました。僕は洗濯当番だったのに洗濯機を回したまま出かけてしまい、夜になって気づいたときにはもう遅かった。次の日に練習でめちゃくちゃ絞られたこともありましたね(笑)。

――03年にW杯初出場。当時の成績は9位でしたが山本さんは総得点で1位、MVPを受賞しました。

 9位のチームの選手がMVPはダメだろ、ということであれから規定が変わりました(笑)。でも当時は1人がひたすら打って勝つというバレースタイルだったので、役割を全うした結果でした。最初の東京ラウンドで3連勝して、広島で2連敗したけれど、次の福岡でベネズエラ、韓国、チュニジアに勝てばトップ3に入れる可能性もあった。でも最初のベネズエラ戦でスパイクを打った後、着地で相手が出してきた足に乗ってしまい捻挫をしてしまいました。ドクターストップがかかった状態でしたが、痛み止めを飲みながらその後の試合に出場しました。ですが、勝つことはできず9位で終わってしまったのが残念でした。
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著者プロフィール

神奈川県生まれ。神奈川新聞運動部でのアルバイトを経て、『月刊トレーニングジャーナル』編集部勤務。2004年にフリーとなり、バレーボール、水泳、フェンシング、レスリングなど五輪競技を取材。著書に『高校バレーは頭脳が9割』(日本文化出版)。共著に『海と、がれきと、ボールと、絆』(講談社)、『青春サプリ』(ポプラ社)。『SAORI』(日本文化出版)、『夢を泳ぐ』(徳間書店)、『絆があれば何度でもやり直せる』(カンゼン)など女子アスリートの著書や、前橋育英高校硬式野球部の荒井直樹監督が記した『当たり前の積み重ねが本物になる』『凡事徹底 前橋育英高校野球部で教え続けていること』(カンゼン)などで構成を担当

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