ラグビーW杯、日本招致活動の舞台裏 伝統国有利の世界に飛び込んだ日本の苦悩

宇都宮徹壱

善戦した11年大会の日本の招致活動

招致活動がスタートした03年から、中心的存在となって活動した徳増氏(写真は07年フランス大会の会場に訪れた時の様子) 【写真提供:徳増浩司】

 日本の招致活動がスタートしたのは03年7月。まずは準備委員会を作り、最初の1年間は「本当に日本での開催が可能なのか」についてのさまざまなシミュレーションに費やした。翌04年7月、正式に立候補することが機関決定される。ただちに招致事務所が作られるが、当初スタッフは徳増さんを含めてわずか3人。事務所として与えられたのは、JRFUの2階にある小さなスペースだった。

 日本に11年大会招致の意思があることを、IRBに正式に伝えたのは04年9月22日。ほどなくして、南アフリカとニュージーランドも名乗りを挙げていることが分かる。南アフリカは95年の第3回大会を開催したばかり。そしてニュージーランドは、第1回大会をオーストラリアと共催しており、今回は単独開催を目指していた。07年大会はフランスでの開催となっているため、“新参者”の日本が何らかの手を打たない限り、南半球での開催となることは必定であった。

「南アフリカとニュージーランドは同盟を結んでいます。ならば、日本はどこと手を組めばいいのか。いろいろロビー活動をしている中、最初に手を差し伸べてくれたのがオーストラリアでした。03年大会の開催国はオーストラリアで、決勝戦に森さんと一緒にJRFU幹部が視察に訪れたのですが、そこで向こうの協会とのつながりが生まれました。しかも当時のチェアマンは、スリランカ出身のディリップ・クマさん。同じアジア人という接点もあって、『日豪協定』というものを結ぶことができたんです」

 11年大会の開催国が決定するのは、05年11月18日。その直前に、招致を表明した3カ国によるプレゼンテーションが行われている。日本は、「ラグビーを日本で開催することは、ラグビーを新しい世界に広げる=新たな地平線」をスローガンにプレゼンテーションを行い、各開催都市には新幹線を使えばほとんどどこでも行けること(この時は札幌での開催予定はなかった)、ヨーロッパと比べて物価はそれほど高くないこと(当時は割高な国と思われていた)など、要点を絞ってコンパクトにアピール。招致用のビデオも好印象を与えた。結果として、第1回の投票では日本とニュージーランドが残り、決戦投票で小差でニュージーランドが開催国に選ばれた。

「投票前は『南アフリカが有利』とか『最初に脱落するのはニュージーランド』とか言われていました。ところが投票はわからないもので『どうせ南アフリカだろう』という雰囲気から、逆に多くの同情票がニュージーランドに流れて南アフリカが落ちてしまった。日本はオーストラリアの支持があったこと、プレゼンで好印象を与えたこと、そして欧州のメディアが『そろそろ新しい国で開催してもいいのでは』という世論を作ったこともあり、決戦投票まで残れました。敗れはしましたが、予想外の大健闘と言えるでしょうね」

なぜIRBは19年大会に日本を推薦したのか?

11年大会がニュージーランドに決まった翌日、森氏は名言を残したという 【写真提供:徳増浩司】

 失敗には終わったものの、日本の初めての招致活動は大健闘であった。しかし、この結果にまったく納得できなかったのが、招致委員長の森氏。11年大会がニュージーランドに決まった翌日、森氏は当時のIRB会長だったシド・ミラー氏に面会を求めている。そして、日本を元気づけようと笑顔で迎えたミラー氏に向かって「なぜラグビーの世界はこんな不公平で閉鎖的なんだ! 国連では小さな国でも1票ずつなのに!」と弁舌を振るった。隣で徳増さんは、ヒヤヒヤしながら通訳していたそうだ。

 この時、通訳を務めていた徳増さんによると、森氏はこんな名言を残したとされる。いわく「もしみなさんがいつまでも伝統国の仲間たちだけでボールを回していたいのなら、そうしたらいい。しかしそれなら、ラグビーは絶対に(世界に)広がらない!」。おそらく本心から出た言葉なのだろう。結果として、ラグビーW杯招致活動は継続されることとなった。11年大会がダメなら15年大会がある。IRBの内情はよく分かった。同じ徹は踏まない。より広範なロビー活動を展開し、アジア諸国の協会からの協力も取り付けた。一方、JRFUのスタッフの数も、前回の招致活動時の15人程度から、倍以上の40人程度に増加している。

 15年大会の招致活動は、06年11月17日にJRFUが日本招致を正式に決定。ところが2年後の08年7月8日、IRBは15年大会と19年大会を同時に決定する旨を発表する。さまざまな国が開催に名乗りを挙げる中、最終的にはイングランド、イタリア、南アフリカが日本のライバルとなった。水面下でさまざまな駆け引きがあったものの、最終的にはIRBの推薦案である「15年イングランド、19年日本」が理事会で承認されることとなった。09年7月28日、日本が招致活動をスタートさせて6年後のことである。

 それにしてもなぜ、IRBは19年大会の開催国に日本を推薦したのだろうか。日本開催が決まった3カ月後、IOC(国際オリンピック委員会)がラグビーのセブンズを16年のリオデジャネイロ五輪からの正式競技に決定した。つまりラグビーが五輪競技に選ばれるためにも、IRBがラグビーを世界に広げる意思を見せたかったという点もあるだろう。加えてもうひとつ、「03年の時点でいち早く日本が手を挙げていたことが大きかったと思います。まだW杯が始まったばかりでしたが、純粋に世界にラグビーを広げていこうというメッセージが各国に受け入れられた。今から16年前からの招致活動でしたが、もしあの時に始めていなければ今年の日本開催はなかったと思います」と徳増さん。

 思えば当時の日本にも「失敗してもいい」とか「とりあえずトライしてみよう」といったマインドが、まだ普通にあったように感じる。そうした時代の空気感もまた、日本開催の要因のひとつとなったのではないか。余談ながら、日本開催が東日本大震災が発生した11年ではなく、東京五輪前年の19年に決まったことにも、何やら運命めいたものを感じる(もちろん結果論ではあるが)。間もなく始まる、ラグビーW杯。招致に尽力された皆さんへの感謝を胸に、ホスト国の国民のひとりとして素人なりに愉しむことにしたい。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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