栗原恵「ずっと自分に自信がなかった」
今だから話せる、走り続けた20年間のこと
バレー人生を「幸せだった」と振り返る栗原恵に話を聞いた
バレー人生を「幸せだった」と振り返る栗原恵に話を聞いた【赤坂直人/スポーツナビ】

 6月10日の引退会見から約1カ月。これまでを振り返ったり、これからを少しずつ描いたり――。栗原恵は競技力を競うことが仕事だった選手時代とは異なる、穏やかな日々を過ごしている。


「目薬を買おうと思って、手に取ったんです。成分表を見て、ごく自然に『これはドーピングは大丈夫だっけ』って。でも気づきました。私、もう試合に出ないからドーピングの成分を気にしなくていいんだ、って(笑)。初めて直感で目薬を買いました」


 中学から親元を離れ、走り続けた20年あまりの日々を振り返りながら栗原はこう言う。


「全てが思い通りというわけではなかったが、一通り経験はできた。幸せだったな、と思います」


 彼女の言葉で、激動のバレーボール人生をじっくりと振り返ってもらった。(取材日:6月17日)

島を出る決意をした母の言葉と初めて見た父の涙

母の言葉に背中を押されたという栗原。単身で生まれ育った島を出る決意をした
母の言葉に背中を押されたという栗原。単身で生まれ育った島を出る決意をした【赤坂直人/スポーツナビ】

 父がバレーボールクラブの監督で、母もママさんバレーをやっていた。幼い頃からバレーボールに携わる機会は多かったので、私も早くバレーボールがやりたいと、クラブに入れる小学4年生になるのを心待ちにしていました。


 バレーボールの練習は週2回程度。どれくらいか説明できないくらい下手でした(笑)。でも身長が大きかったので目にとめていただいて、姫路の大津中から「練習を見に来ませんか?」とお話をいただいたんです。最初は「バレーボールが上手になれるなら行きたい!」と心がときめき、いざ練習を見たら、自分と同世代と思えないくらいみんな上手で。「私もここに入ったらこんなプレーができるようになるんだ!」と感動して、すぐに「行きたい!」と思ったんです。


 とはいえ、広島の能美島から姫路へ通うことはできません。両親も島を離れることはできなかったので、もしも大津中へ行くなら1人で行かなければならない。保育園や小学校からみんな知り合いで友達の島を飛び出して、いきなり1学年7クラスもあるような場所で自分がやっていけるのか。「行きたい!」と言ってはみたものの、不安で、家族会議をしても、私はただ泣くだけで、そんな私を見て父は「そんなに泣くくらいなら行くな!」と怒る。毎日のようにそんな家族会議が繰り返された中、背中を押したのは母の言葉でした。


「やってもやらなくても後悔する。それなら、やって後悔するか、やらずに後悔するかは自分で決めなさい」


 決めるのはメグだから応援するよ、という言葉に後押しされて、私は島を出ました。もしもあの時、違う選択をしていたら違う人生を送っていたでしょうね。だから、最後にこうして、笑顔で選手生活を終えることができたのは両親のおかげ。心から感謝しています。


 単身姫路へ出てからも、週に2度、両親が島から車で5時間かけて来てくれるのですが、用意された食事がそのままで、私が寝ている姿を見て母は「本当にこの選択でよかったのか」と泣いていたそうです。私自身は、寂しいとか、苦しいと考える余裕すらないほど毎日練習についていくだけでクタクタ。でも、短い滞在を終えて島へ帰る前、「頑張れよ」と握手をして部屋を出る父が振り返りざまに涙を流す姿を初めて見て、私も涙が溢れたのを、今でもはっきり覚えています。

「勝たなければいけない」プレッシャーから全身けいれんに

「今でも『メグカナ』と言われると、なんだか加奈に申し訳ない気がする」と栗原
「今でも『メグカナ』と言われると、なんだか加奈に申し訳ない気がする」と栗原【写真:アフロスポーツ】

 ちょうど反抗期の頃だったので、同級生からは「独り暮らしでいいな」と言われましたが、私は帰れるものならすぐに帰りたいと思っていました。


 それでも帰らず続けていたのは私が頑固だったから(笑)。絶対途中で帰らないと決めていたし、漠然と、このままバレーボール選手として進んでいくんだという思いは常にありました。


 でも、やっぱり根本は頑固だから、この学校へ行けば高校はここ、卒業したらこのチーム、という定められたレールには乗りたくなかった。自分で「行きたい」と思う学校へ進むために、高校は普通に受験をして入ろう。そう思っていた時に声をかけて下さったのが三田尻女子高(現・誠英高)でした。


 練習を見て、あまりのレベルの高さに驚きましたが「ここで自分もうまくなりたい」と即決しました。ただ、今だから言えるのですが、「三田尻に行きます」と返事をした翌日、いろいろな高校から声をかけていただいて、その中に(下北沢)成徳高もあったんです。同じ歳で、小学生の頃から憧れていた(大山)加奈がいる成徳。あのタイミングで三田尻に行くと決めず、もし成徳から先にお話しをもらっていたら、高校から加奈と一緒だったかもしれない。でも少しの差でそうならなかった。これも運命だな、と今改めて感じます。


 私が入学した頃の三田尻は全国でも勝ち続けていたチームで、私もそこで注目していただいていたのですが、当時は今のようにSNSが普及されていなかったですし、テレビを見る時間もありませんでした。ましてや寮と体育館は道を1本挟んだところにあるので、学校と体育館、寮の往復。その間にあるコンビニへ行くことすらできなかったので(笑)、自分が注目されているということに気づきもしませんでした。


 中学の頃は「ミスをしたら怒られる」といつも怯えながらバレーボールをしていました。笑う練習から始まって、感情が出せるようになったのは高校時代になってから。同時に「勝って当たり前」というプレッシャーと直面したのも高校時代でした。


 連覇が重なるのはすごいことですが、それが続けば次も「勝たなければならない」とプレッシャーは増えます。純粋にそれを楽しめればよかったのですが、私にはそんな余裕がなく、実際に高校2年の国体、下北沢成徳との試合は私が緊張のあまり全身けいれんを起こしたせいで負けてしまいました。


 悔しいとか、悲しいではなく、ただただ先輩方に申し訳なかった。それまでは「みんなが助け合えるのがバレーボールの素晴らしさ」と思って、自分が苦しい時も助けてくれる仲間に感謝する。その気持ちしかありませんでした。でも、たとえ一度でも負ければ勝ち続けてきた歴史を失ってしまう。前や、上ばかり見ていた時には気づかなかった怖さ、自分のせいで負ける、という責任を背負うこと。勝つことの怖さに改めて直面しました。


 それが払拭されたのは2年生の春高です。先輩が抜けて、それまで試合に出ていたのは私1人、という状況で同級生とコートに立つ。チームとしてはまだまだ不十分なのに、前年までの成績で「優勝候補」に挙げられる。もう二度と国体のような負けは繰り返してはいけない。そのプレッシャーに押しつぶされそうになりながら臨んだ春高の初戦、札幌大谷に1セットを先取された時は「1回戦で負けるんだ」と覚悟しました。


 勝負って不思議ですよね。もう終わりだ、と思ったはずなのに、そこからガラッとチームが変わった。逆転勝利してから、全員の目の色が変わり、試合をするたびチームが固まっていく。決勝で成徳に負けて準優勝でしたが、日に日に増していく強さを感じながら最後まで戦うことができました。


 ただ必死に相手チームのエースの加奈と打ち合って、戦った。自分の中ではそれだけでしたが、知らないところでは「東の大山、西の栗原」と言われていたそうです。私からすれば加奈は常に見上げる存在だったので、「どうして私が大山さんと名前を並べられるんですか?」と申し訳ない気持ちでいっぱいでした。だから今でも「メグカナ」と言われると、なんだか加奈に申し訳ない気がするんです(笑)。

田中夕子

神奈川県生まれ。神奈川新聞運動部でのアルバイトを経て、『月刊トレーニングジャーナル』編集部勤務。2004年にフリーとなり、バレーボール、水泳、フェンシング、レスリングなど五輪競技を取材。共著に『海と、がれきと、ボールと、絆』(講談社)。『SAORI』(日本文化出版)、『夢を泳ぐ』(徳間書店)、『絆があれば何度でもやり直せる』(カンゼン)など、女子アスリートの著書や、前橋育英高校野球部・荒井直樹監督の『当たり前の積み重ねが本物になる』では構成を担当

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