ソフトB増田珠、母と歩む野球人生 親子二人三脚で挑んだ「プロ」という目標
「プロ野球選手」という目標を胸に横浜へ
幼いころからソフトボールと野球に打ち込んだ増田には、ずっと心に決めていた目標があった 【写真:山下隼】
「珠は小学4、5年生のときから『中学を卒業したら強豪高校に行く』と言っていたのですが、こっちはまったく本気になんてしていませんでした。スポーツをやったことがないので、スポーツで高校に進学する、という発想がまったくなかったんです。でも、中学生になってもその思いは変わらず、本気なんだなと(笑)」
それからは、二人で甲子園のテレビ中継や『熱闘甲子園』(朝日放送テレビ)などを見て強豪高校というものを間近に感じたり、ネットや野球本、野球雑誌から情報を収集したり。出版系の仕事をしていた美穂さんにとって、ネットや本であれこれ調べることは得意分野。「気になったことは、すぐ母が調べてくれるので、その情報が自分のモチベーションにもなっていました」と珠は話す。
そして、高校は、長崎から遠く離れた、神奈川の横浜高に決める。
「中3春の全国選抜大会で声をかけていただいた大阪桐蔭高か横浜高のどっちかにしようと思い、大阪は関西人に少し怖いイメージがあったのと(笑)、横浜がプロ野球選手の輩出人数が多い高校だったのでそこに決めました。母には『え? 横浜?』と驚かれ、『遠いわ……』と最初はすごく寂しがられましたけど、僕の『プロ野球選手になりたい』という目標を後押しして行かせてくれました」
そして2015年3月、珠は、親元を離れ、長崎から横浜へと旅立っていった。
1年夏から活躍する好スタートを切ったが…
いつも笑顔で誰からも愛される増田だが、その笑顔が消えるほどの挫折を味わうことに… 【写真:山下隼】
体調が落ち着いたところで、美穂さんが長崎に帰る、となったとき、珠は寮の2階からタタタタッと階段を降りてきて、すごく心細そうに「母ちゃん、またね!」と手を振った。
美穂さんは、「あのときの顔が忘れられないです。体は大きくても中身はまだ15歳。不安なんだな……と涙が出てきました。私も、長崎弁をしゃべる田舎者が、大都会の横浜に行っていじめられやしないか、洗濯など身の回りのことがちゃんとやっていけるのか……やれないとは思っていなかったのですが、やはり不安しかありませんでした」と振り返る。
だが、礼儀正しく挨拶もしっかりできる、そして、いつも元気いっぱいの珠は、先輩に可愛がられ、同級生にも愛された。あっという間に横浜高の輪に溶け込み、野球に集中していったのだ。
そして、1年春からベンチ入りすると、夏の神奈川大会ではセンターのレギュラーとして初戦から決勝までの全8試合に出場。準決勝の桐光学園高戦の7回に同点ホームランを放つなど、4割近い打率(.379)の活躍を見せた。決勝で敗れ甲子園出場はならなかったが、その夏が最後となった渡辺元智監督に、「増田はモノが違う。大変なバッター。これからが楽しみです」と言わしめるなど、横浜高の中心選手として十分すぎる順調なスタートを切った。
秋も神奈川大会、関東大会と合計6試合で5割近い打率(.455)を残す活躍を見せたが、その後、試練が待っていた。大会後、右手首が疲労骨折をしていることが分かり、練習できない時期が続いたのだ。野球が大好きであり、向上心が高く、練習していないといられない珠にとって、この期間はとてもつらいものだった。
苦しい年を越え、2年生になる前の3月、「もう練習を再開してもいいですよ」という医者のゴーサインで練習を始めたのだが、何と、今度はその部分を骨折。手術をするしかない状況になり、珠は高校2年4月、右手首の手術を受けた。
「あのときはさすがに落ち込みました」という珠、トレードマークだった笑顔が消え、高校野球生活でたった一度だけ、母に弱音を吐いた。
そんな珠に、美穂さんは、あるものを送った。
手術した日から復活の日までの、“夏までの80日計画”という手作りの冊子だった。
(企画構成:株式会社スリーライト)
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増田珠(ますだ・しゅう)
【写真:山下隼】