連載:左サイドスローの美学

投手王国・広島で生き残るために ドラフト外の清川栄治が企んだ大胆な賭け

前田恵

左サイドスローは自分で選ぶべきもの

往年の流れるような投球フォームを実践してくれた 【撮影:白石永(スリーライト)】

 現役引退後は広島、オリックス、西武、社会人野球の日立製作所でコーチを歴任。若い選手たちに、自身の15年に及ぶプロ野球生活から学んだ知恵を伝授する。

「左ピッチャーに、『サイドスローにする方法もあるよ』と話したこともありますよ。広島時代の佐竹健太、オリックスの清水章夫、西武の中崎雄太、今なら藤田航生。ただ、『腕を下げてみろ』と、こちらからやらせたことは一度もない。僕から言うのは、違うと思うんです。あくまでも、行き詰った選手自身が“ここで自分はちょっと変わらなくちゃいけないな”と思う。そのときの選択肢の一つとして、彼らの頭の中に入れておいてやれればいい。実際やるかやらないかは、選手が考えることですよ。覚悟の上での挑戦でなければ、結果は出てこないと思います」

 当然、サイドスローには向き、不向きがある。「こういう方法もあるよ」と提案できるのは、腰の回転と、サイドから投げる腕の使い方が一致する選手。一般的に、腰の回転が横回転のピッチャーはその延長線上で腕を振ると、最もいい球がいくとされている。清川自身の腰の使い方は、「横から投げることのできる許容範囲内の縦回転」だった。

「体の硬い選手でもできることはできる。でも強いて言えば、ひじの使い方がうまい選手のほうがやりやすいですね。サイドのフォームを固めやすい。サイドスローのピッチャーのフォームを見ると、下半身はドンと根を下ろしたような形で、ヒジだけが出てくるでしょう。オーバースローでも同じなんですが、上からヒジを出して投げるのはそこまで難しくない。でも体の重心を下げながらヒジを出すのは、結構難しいんですよ」

 広島時代のフォーム変更当初、清川は、流れるような「1ピース」のフォームだった。年を重ね、近鉄に移ってからは、右足を上げてから下ろすまでの間と、上体をひねってテークバックに入ったところで微妙にタイミングを変えた。

「ストレートの力が落ちたから、タイミングをずらすしかなかったんですよ。僕はもともと真っすぐも140キロまでで、そこまで速くなかった。それでも空振りが取れたのは、球持ちが良かったからだと思うんです。右足を着いてから、投げるまでの時間が長い。間があるんですね。下半身を低くしたまま、下半身の粘りを利かせてスーッと移動するような動きを太極拳でやっているじゃないですか。あれと一緒で、ゆっくりした動きから最後は全力。ゼロから100、そういうイメージで投げていました。油断させておいて、“あ、来た!”みたいなね。どこか錯覚を起こさせるような感じなのかな。それが、三振を取れた要因だったと思います」

自分だけで密かに喜んだ大記録

「記録に残らない大記録」を今でも誇りに思っている清川コーチ 【撮影:白石永(スリーライト)】

 プロ初勝利は入団5年目、通算106試合目の登板(88年4月20日、巨人戦=東京ドーム)だった。左サイドスローとなったが故に歩んできた、中継ぎ街道。まだ「ホールド」という記録のなかった時代で勝ち負け、セーブといった表に出る記録とは無縁の野球人生だった。

 それでも中継ぎは、「天職」だと清川は言う。「やるべくしてやった仕事」の結果が、実働15年、438試合登板、364回、奪三振375、13勝10敗12セーブ、防御率2.94の成績だ。そしてもう一つ、忘れられない自分だけの大記録がここにある。

「広島時代の87年、7試合打者29人に対して“完全試合”をしたんです(アウトの内訳は三振12、内野ゴロ5、内野フライ3、外野フライ9)。中継ぎって、光が当たらないでしょう。だから、常にこんな感じの、表に出てこない記録を狙っていました。完全試合って、途中で口にすると記録が途切れがちじゃないですか。だから途中、記者にも誰にも何も言わずに、ひたすら自分だけの中で温めていた(笑)。29人目に落合(博満=中日)さんをライトフライに取って、ホッとしたわけじゃないんでしょうが、宇野(勝=中日)さんにナゴヤ球場のライトスタンドにホームランされてしまいました。36人くらいはいきたかったんですけどねえ」

 清川が現役時代にまとった、2つのユニフォーム。その胸には自身と、見える人にしか見えない、しかしまこと鮮やかなプロフェッショナルの勲章が、輝きを放っている。(文中、敬称略)

(企画構成:株式会社スリーライト)

清川栄治(きよかわ・えいじ)

【撮影:白石永(スリーライト)】

1961年9月21日生まれ。京都府出身。京都商業高校から大阪商業大学を経て、83年にドラフト外で広島に入団。プロ3年目の86年に50試合に登板し、1軍に定着。当時、投手王国と言われた広島で、サイドスローから繰り出すカーブを武器に、ワンポイントリリーフとして活躍した。91年シーズン途中で、トレードで近鉄に移籍。97年には当時の日本プロ野球記録である438試合連続救援登板を記録。98年に7年ぶりに広島に復帰し、同年に現役を引退した。引退後は広島、オリックス、日立製作所でコーチを歴任し、14年に西武の1軍投手コーチに就任し、今シーズンは巡回投手コーチを務めている。

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著者プロフィール

1963年、兵庫県神戸市生まれ。上智大学在学中の85、86年、川崎球場でグラウンドガールを務める。卒業後、ベースボール・マガジン社で野球誌編集記者。91年シーズン限りで退社し、フリーライターに。野球、サッカーなど各種スポーツのほか、旅行、教育、犬関係も執筆。著書に『母たちのプロ野球』(中央公論新社)、『野球酒場』(ベースボール・マガジン社)ほか。編集協力に野村克也著『野村克也からの手紙』(ベースボール・マガジン社)ほか。豪州プロ野球リーグABLの取材歴は20年を超え、昨季よりABL公認でABL Japan公式サイト(http://abl-japan.com)を運営中。

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