連載:左サイドスローの美学

投手王国・広島で生き残るために ドラフト外の清川栄治が企んだ大胆な賭け

前田恵

投手王国と言われた1980年代の広島で輝きを放った清川栄治氏。往年のピッチャーとしてだけでなく、コーチとしての目線からも左サイドスローについて語ってもらった 【撮影:白石永(スリーライト)】

「とうとう勝ってしまった……」――入団5年目、通算106試合目にしてプロ初勝利を挙げた試合後、清川栄治はこう報道陣に語った。若いころは、「いつか先発に」との思いもどこかにあった。やがてその気持ちは消え、「リリーフ一筋、人がやらない記録を作るのもいいかな」と思うようになった。彼をそんな境地に導いたのは、左サイドスローという独特な投法。投手王国・広島で生き残るため、清川が見出した大胆な賭けである。

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古葉監督の目前でついに秘策を実行

1年目秋季キャンプでの賭けが、ドラフト外で入団した清川コーチの野球人生を大きく変えることになった 【撮影:白石永(スリーライト)】

 ドラフト外とはいえ大卒、左の本格派。高校、大学共に名門校のエースである。自信を持って、入団したはずだった。ところが当時の広島カープは12球団随一の投手王国。左だけ見ても先発に大野豊、川口和久、中継ぎに山本和男、高木宜宏、抑えにレーシッチ……と充実していた。しかも、確固たる役割の与えられた12、13人で1年間シーズンを回していくため、今とは違って1、2軍の入れ替えがほとんどない。ましてや先発に割って入る隙など、皆無といっていい中でのプロ野球人生のスタートだった。

「そりゃあもちろん、プロでも先発で活躍する夢はもっていましたよ。そうしたスタミナでも負けてはいなかった。だけど、それ以上にカープの投手陣が充実していたんです。2軍の監督、コーチはまったく振り向いてもくれない。これは人がやらんようなことをやらなければ――自分しかいない“オンリーワン”にならなければ、首脳陣の目に留まることはできないな、とまず考えました」

 1年目の秋、フロリダ教育リーグからの帰国後、参加した秋季キャンプ。そこで、清川は“オンリーワン作戦”を開始した。簡単なのは、持ち球を増やすことである。しかし、首脳陣に振り向いてもらうための大きな勝負。何か大胆に変えなければいけない。「ここで勝負をかけてダメだったら、それまでよ」という覚悟である。

「そこで考えたのが、腕を下げること。実は高校2年生のとき、一度サイドスローをやったことがあったんです。ただ、2軍でサイドスローを大っぴらにやって、首脳陣に『勝手なことをするな』とか『お前はそんなんじゃあ無理だ』とか、ストップをかけられるのが怖かった。だから1年目の途中には真剣に考え始めたんですけれども、じっと雌伏のときを過ごしていました」
 秋の日南キャンプ。清川はブルペンに入ると、いつものように上から投げた。そこへ、1軍の古葉竹識監督。古葉監督が自分の後ろを通る気配がすると、急いで腕を下げ、サイドスローで投げ込んだ。それに気づいた古葉監督が足を止め、「う〜ん……」と唸るように自分のピッチングを見つめている。その後、古葉監督の「左サイドの、面白いヤツがいる」というコメントが紙面に載った。作戦は、成功したのだ。そのうちブルペンで投げていても、オーバースローで投げるよりボールが低めに集まり出した。ここは低めにさえ投げれば「なんとかなるかもしれない」と思った。

「いざ試合で投げ始めると、やはり左バッターがタイミングを取りづらそうにしているのはすぐにわかりました。だから、低めを意識して投げることとタイミングの取り方で、なんとか1軍で食っていけないかなと。そんな光が、にわかに差し込んできましたね」

左打者を幻惑させた七色のカーブ

縫い目に二本の指をかける「七色のカーブ」の握りを見せてくれた 【撮影:白石永(スリーライト)】

 まずは1軍に上がること。そして、1軍に“自分のポジション”を作ること。初めは敗戦処理でいい。やがては対左バッターのワンポイント、あるいは試合におけるポイントで投げられるように。左には、それだけの需要がある。ましてや左サイドスローの自分にしか目指せない場所、誰しもができない仕事ができれば、これほど面白いことはない。

「1軍に定着したのは、3年目の1986年ですね。このころから、自分は中継ぎで生きていくのかなと思い始めた。この年良かったのは、津田(恒実)さんが抑えに配置転換され、僕も初めて1軍で左専用のリリーフという形になったこと。リリーフ陣全体に、厚みが出てきたんです。右は84年に最優秀防御率を獲った小林誠二さんがいて、僕と同じサイドスロー。ブルペンで一緒に肩を作っていると、右と左で鏡写しのような状態になるんですよ。それで僕、よく小林さんのタイミング、腕の使い方、足腰の位置など、マネをしていました」

 現役時代を通していえば、球種の割合はストレート4.5、カーブ4.5、シュート1。若いころは2、3イニング投げることもあったため、フォークやパームボールを投げた時期もあった。逆に晩年は、カーブ中心。左バッターに対することがほとんどで、体の近くから逃げる有効な球として多投した。

 一般的に、カーブは1本の縫い目に指をかける。しかし清川は二本の縫い目に指をかけていた。清川は手があまり大きくないし、リリーフで緊張すると、汗をかく。力を入れなければならないところで人差し指や中指が外れ、ボールがすっぽ抜けてしまってはいけない。そこで「保険」のため、二つの縫い目に指をかけた。

「指がよくかかったときは、曲がり幅が広くなるんです。ちょっとずれるとチェンジアップ的になって、それはそれでいいことがあった(笑)。スライダー的に小さく曲げる、大きく曲げる、緩く曲げる、ちょっと落とす、あるいはちょっと伸びてホップするようなイメージとか。“曲がらないカーブ”なんていうのもありましたね(笑)。サインは同じ“カーブ”でも、指先の力の入れ具合や手首の角度、腕の使い方などで、曲がり幅を調節していました」

 そういうわけで、あるスコアラーは清川のカーブを『七色のカーブ』と呼んでいた。敵からしてみれば、なんともやっかいな相手である。並み居る左バッターたちが、球の出どころが見づらい左サイドスロー・清川を苦手とした。広島時代は横浜大洋・高木豊や巨人・クロマティら。近鉄時代には、日本ハム・ウインタース、オリックス・藤井康雄ら。とはいえ、カモと苦手は「ある日を境に、逆になることもある」という。中には心理作戦(?)で、対抗してくるバッターもいた。例えば大洋・高木豊である。

「ある日の試合前、高木さんが『今日初球は何を投げるんだ?』と話しかけてきましてね。当時はまだ“相手チームの打者とは話をするな”という時代。慌てて逃げたんですが、何か空気が変わったんですかね。その試合か、次の試合でホームランを打たれて、それから何か苦手になってしまった。ウインタースは試合前、ニコニコしながらやってきて、『この腕が悪いんだ』と言って、右腕をへし折るようなポーズを取ったんです。左腕じゃなかったんだけど、その日にホームランを打たれて、吉井(理人)の勝利を消してしまいました。何かちょっとした心の動きが、作用するんでしょうね」

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著者プロフィール

1963年、兵庫県神戸市生まれ。上智大学在学中の85、86年、川崎球場でグラウンドガールを務める。卒業後、ベースボール・マガジン社で野球誌編集記者。91年シーズン限りで退社し、フリーライターに。野球、サッカーなど各種スポーツのほか、旅行、教育、犬関係も執筆。著書に『母たちのプロ野球』(中央公論新社)、『野球酒場』(ベースボール・マガジン社)ほか。編集協力に野村克也著『野村克也からの手紙』(ベースボール・マガジン社)ほか。豪州プロ野球リーグABLの取材歴は20年を超え、昨季よりABL公認でABL Japan公式サイト(http://abl-japan.com)を運営中。

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