新潟が「アルビらしさ」を取り戻した理由 J2・J3漫遊記 アルビレックス新潟<前編>
3度目の代行から正式に監督就任
当地特有の分厚い雲、そして海から吹き付ける冷たい風。トップチームの選手たちがボールを追いかける中、監督の片渕は両手を精いっぱい広げながら、熱のこもった指導を続けている。練習後のインタビューで、まず聞いてみたのは最近の好調の要因について。片渕の答えは「代行でなくなったから」という意外なものであった。
「最初の3試合は代行で、9月(1日)の愛媛FC戦から要請を受けて正式に監督になりました。(監督代行と今では)やっぱり違いますね。代行の時は、それまでのものを壊して新しいものを作るのではなく、最低限のことを維持しながら勝負して、次につなげることを考えなければならない。監督になってからは、迷いがなくなったし、選手にも要求できるようになった。自分の言葉の重さが変わった、とでも言いますか。でもそれは、僕が変わったのではなく、選手の受け止め方が変わったんだと思います」
監督就任の初戦となったアウェーの愛媛戦は、スコアレスドローで連敗は6でストップ。片渕いわく「負けてもおかしくないゲームだったが、そこで勝ち点1を得られたことをポジティブに捉えることができた」。続くホームでのFC岐阜戦は「今までやってきたことが間違っていなかったと言えるゲーム」を展開して、今季最多得点の5−0で完勝。8試合ぶりの勝ち点3を手にした。以降、無敗記録は町田戦まで続くことになる。
そんな片渕の新潟との付き合いは、現役最後の年となった2002年までさかのぼる。もともと佐賀県出身で、サガン鳥栖で4シーズンプレーしていたが、01年に右ひざの手術で出番が減少。引退を考えていたときに、声をかけてくれたのが当時新潟を率いていた反町康治監督である。
「新潟戦で、たまたま2ゴール挙げたことをソリさんが覚えてくれていたみたいです」とは当人の弁。結局、新潟でも3試合しか出場できなかったが、「鳥栖のアウェーに連れて行ってくれたり、リーグ最終戦の水戸(ホーリーホック)戦に起用してもらったり」といった配慮はあったという。
そして翌03年から、新潟で指導者の道に入る。
「最初はユースのコーチで、06年からはユースの監督に就任になりました。(酒井)高徳がいた頃ですね。16年からトップチームのコーチになって、3年連続で監督代行になりましたけれど、自分はどちらかといえば育成向きの指導者だと思います。J2でしかプレーしていないし、分析力に長けているわけでもないし。同じJ2でも、井原(正巳)さんや相馬(直樹)さんやソリさんと対等になれるわけでもない。でも、アルビレックス新潟というクラブに必要とされていたから、16年間もここにいられたんだと思います。育成もトップもできるし、ライセンスもある。まあ、使い勝手がいいということなんでしょうね(笑)」
「やっとアルビらしいサッカーが戻ってきた」
「(前任者は)いずれも三者三様でしたけれど、僕はアルビのスタイルというものがベースにあります。僕はこのクラブしか知らないけれど、だからこそ立ち戻れる場所が分かっています。それはシンプルでありながら、多くのサポーターが求めているものと合致しているという確信があります。もちろん、僕自身は『こういうサッカーが面白いよね』というのはありますよ。アトレティコ(・マドリー)とか、ナポリとか(笑)。でもウチの監督は、やっぱりアルビのサッカーを目指すべきだと思います」
実際、サポーターの間からも「やっとアルビらしいサッカーが戻ってきた」という話をあちこちで耳にする。では「アルビらしさ」とは何か? ある人物が非常に分かりやすく教えてくれた。いわく「ビッグスワンが一番盛り上がる瞬間って、実は相手に奪われたボールを奪い返した瞬間なんですよ」。それこそが「アルビらしさ」だと、その人物は教えてくれた。では、立ち戻るべき場所に回帰した今、片渕はどのように今季を締めくくろうと考えているのだろうか。当人の答えは明快であった。
「われわれらしく戦うことですね。フットボールは、勝ち・負け・引き分けは、絶対にあります。残り3試合、われわれが持っている力を最大限に発揮して、負けるゲームでも来季につながるようにしたい。ただし来季のことが、今は考えられないのも事実です。同じポジションに、自分がいるかどうかも分からないですし。それよりも、今を全力で生きることに集中したい。ですから、これからも1試合、1試合が勝負なんです」
オン・ザ・ピッチにおける新潟のV字回復の要因は、これでご理解いただけたと思う。後編はオフ・ザ・ピッチについて、「アルビらしさ」を私に教示してくれた人物にフォーカスすることにしたい。
<後編につづく。文中敬称略>