国立大で開花の兆し見せるドラフト候補 静岡大の本格派右腕・山崎智也の可能性

高木遊

たった4球で終わった最後の夏

高校時代は2番手、大学では国立大という決して恵まれているとは言えない環境の中で、ドラフト候補までに成長した山崎 【撮影:高木遊】

 遅咲きの本格派右腕が徐々に徐々にその才能を開花させようとしている。1997年の3月25日に静岡県磐田市に生まれた山崎智也は、早生まれの影響もあってか高校時代まではまったくの無名だった。中学時代までは主に外野手。進学校の磐田南高に進んでから投手を始めた。エースにはなれず、最後の夏は控え投手で初戦敗退。負けている状況の8回裏途中から打者2人、たった4球で高校野球生活は幕を閉じた。一方で、「まだまだ心残りがありました」と不完全燃焼に終わっただけに、大学でも硬式野球を続けることを決めた。

 当然、強豪校からの勧誘は一切なく一般入試の合格に向けて受験勉強をした。当初は東京学芸大を目指していたが、センター試験の成績などを鑑みて進路を変更。入学前の2014年春に、全日本大学野球選手権に43年ぶりの出場を果たしていた地元の静岡大に志望を変え合格。これが山崎にとって転機となった。

山崎投手の投球フォーム

(撮影:高木遊)

異色監督と二人三脚

試合でも高山監督らが笑顔を見せる明るい雰囲気の静岡大ベンチ 【撮影:高木遊】

 入部当時の球速は最速でも133キロほどの平凡な投手ではあったが高山慎弘監督(当時コーチ)は「キャッチボールで投げていた球は、浮いてくるような軌道のいい球でした」と才能の一端を感じ取っていた。

 高山監督は大学野球の監督として異色の存在だ。小学生時代は後藤武敏(横浜DeNA/今季で引退)とともに浜松リトルで野球を始め、高校は名門の浜松商高でプレー。そこでは出場機会に恵まれなかったが、静岡大で3年春と4年春に強打の一塁手として優勝に貢献。卒業後は野球からしばらく離れていたが、13年夏から、恩師である横山義昭前監督の依頼を受けてコーチに就任。平日は自ら経営する都内の会社の仕事に従事し、週末は静岡まで車を飛ばし無給で指導をする。

 そんな多忙な中でも技術向上や筋力強化の研究に余念がなく、山崎には肩甲骨の柔らかさを生かしながら下半身強化ができるよう短距離のダッシュを繰り返させた。またブルペンでは「少ない球数を全力で投げるように」と伝え、思いきり投げ込んでいくことで球速の向上を目指した。すると、球速は大学1年の冬を越えた時点140キロ台を超えるようになり、2年夏には145キロを計測するまでになった。

 そして3年時から登板機会も増えていくと、「フォームに柔軟性があって球のキレもあるので楽しみ」(阪神・吉野誠スカウト)などと、プロの担当スカウト陣からも注目を集めるようになっていった。

スカウト陣は将来性に期待

 今秋はプロ志望を固め、さらに進化した姿を見せている。夏場のオープン戦で、上武大や立正大といった強豪校相手に登板。普段のリーグ戦で戦う相手よりも空振りを取りづらい打者と戦う中で、配球の組み立てなど多くのものを学んだ。これで投球の幅も広がると、開幕2週目の静岡産業大戦で9回1死までノーヒットに抑えるリーグ戦初完封を挙げた。

「ネット裏にスーツを着た人(スカウト)がいると、どうしても気にはなってしまいます」と山崎は苦笑いするが、無駄な硬さはさほどなく、スカウト陣も将来性には期待を込める。

「球の質がいいですね。スーッと伸びてくる糸を引くようなストレートです。体ができて、変化球も腕が振れるようになれば面白いと思います」(広島・松本有史スカウト)

「投げ方がきれいで特に直すところがないです。体を鍛える必要はありますが、この柔らかさは魅力です」(東北楽天・山田潤スカウト)

 両スカウトが賞賛の一方で指摘するように体力面や変化球には、まだまだ課題は多く、球速も物足りないだろう。ただ、恵まれた環境のプロで体を作れば、山崎本人が「数年前には思いもしなかった状況」と語る現在を、さらに大きく超える姿となる可能性は十二分に秘めている。
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著者プロフィール

1988年、東京都生まれ。幼い頃よりスポーツ観戦に勤しみ、東洋大学社会学部卒業後、スポーツライターとして活動を開始。関東を中心に全国各地の大学野球を精力的に取材。中学、高校、社会人などアマチュア野球全般やラグビーなども取材領域とする。

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