米国帰りのDeNA中後悠平がいま感じること 「現状にはもちろん満足していない」

菊地慶剛

入団テストを経て3年ぶりの日本球界復帰を果たした中後(写真左)。新天地DeNAでは中継ぎとしてマウンドへ上がっている 【写真は共同】

 6月下旬にスポーツ紙が報じた、横浜DeNAが中後悠平投手の入団テストを実施するという記事を読んで目を疑った。実は恥ずかしながら、その時点で彼がダイヤモンドバックスを解雇されている事実を知らず、今も米国で活躍していると思っていたからだ。

 2015年に千葉ロッテから戦力外通告を受け、ダイヤモンドバックスとマイナー契約を結び活躍の舞台を米国に移した16年以降、事あるごとに取材をする機会を得た。今年もキャンプ前の1月に自主トレを見学させてもらい、キャンプ中、さらにシーズン開幕後も何度か連絡を取り合っていた。冒頭の記事に接して真っ先に感じた思いは「何が起こったの?」だった。

「うまくいかなかった」米国挑戦3年目

 米国挑戦3年目を迎えた中後の目標はもちろんMLB昇格だった。2年連続で招待選手としてメジャーキャンプに招集され、彼がメジャーに近い位置にいるのは誰もが理解していた。まさかシーズン途中で解雇になるなんて予想もしていなかった。ただ今年も2Aで開幕を迎えることになり(本人は3Aスタートを目指していた)、開幕してもなかなか安定しない投球が続いてはいたのは確かだった。

「何なんですかね。やっていることは間違ってなかったと思うんですけど……」

 中後は2Aでもがいた日々を振り返る。

「(解雇前の)最後の3、4試合は良かったんです。ずっと何かをつかみかけた感じがあったんですけど、その中でいろいろ(課題を)やろうしていた中ですべてが悪循環になってしまったというか、いろんなことを取り入れようとしたり、こんなことをやろうと思ってもうまくいかないとか、いろいろありましたね。

 ブルペンでも球は良かったですし、実際試合でいい球を投げていた時でも、配球の問題だったりとか、コントロールミスだったりとかで打たれてしまったり、また1イニング目は良かったのに2イニング目に打たれたりとか……。そういうことが重なってしまい、うまくいかないというのがありました。

 いつクビになってもおかしくないというのは常に頭に入れていたので、(解雇を)言われた時は『来たか』という感じでしたね。もちろんその先までやる、上に上がる気持ちでやってましたけど、クビになる準備ができていたというわけではないですけど、自分の中で腹はくくっていましたし、いつ(解雇を)言われても後悔のないようにというつもりでやってました」

 残念ながら中後の米国挑戦は2年半で唐突に幕を閉じた。だが15年オフに合同トライアウトを受験した際はNPB球団からの誘いはなく、ダイヤモンドバックスからのオファーが届くまでは独立リーグで投げるしかなかった男に、今回はDeNAが声をかけてくれたのだ。これも言葉も文化も違う未知の地に決死の覚悟で飛び込み、2年半がむしゃらに野球に打ち込んできた成果が認められたからだろう。

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著者プロフィール

栃木県出身。某業界紙記者を経て1993年に米国へ移りフリーライター活動を開始。95年に野茂英雄氏がドジャース入りをしたことを契機に本格的にスポーツライターの道を歩む。これまでスポーツ紙や通信社の通信員を務め、MLBをはじめNFL、NBA、NHL、MLS、PGA、ウィンタースポーツ等様々な競技を取材する。フルマラソン完走3回の経験を持ち、時折アスリートの自主トレに参加しトレーニングに励む。モットーは「歌って走れるスポーツライター」。Twitter(http://twitter.com/joshkikuchi)も随時更新中。

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